夏の陽射しが柔らかさをまとい始めた頃。代わり映えのしない道を通って、わたしは佑布 とともに久しぶりの学校へと向かう。突然ふわり、と風がふいて、帽子を飛ばしていく。それは、道路を駆けていった。
「……あぁ、やっちゃった」
「今日、風強いよね。私、取ってくる」
いいよ後で自分で取りに行く、と言ったわたしに、あんた運動神経鈍いでしょう?と返される。
「でも、危ないよ!」
その間にも、帽子は車の間をぬって遠ざかっていく。それを見ながら、佑布は笑った。
「大丈夫だよ、深緒 。ちょっと持ってて」
わたしの返事も待たず、鞄を押しつけられた。それから器用に道路を渡っていく。転がり続ける帽子を掴むと、それを自慢気に振った。
「ほら、大丈夫だったでしょ?」
「分かったから、早く帰ってきて!」
手招きすると、うなずいてこちらへ渡ってこようと足を踏みだした。
「……! 佑布、トラック!」
右側から猛スピードで進んでくるトラックが見えて、わたしは叫ぶ。けれど、それがいけなかった。
彼女は、きょとんとした顔で立ち止まった。すぐさまプ――というクラクションの音と、キキィ――という止まりきれないブレーキの音が響く。ついで、二度鈍い音が聞こえた。弧を描いた佑布の身体は、無情にも歩道へと叩きつけられる。
わたしはその場にへたりこんだ。目は道路の方へ向けられたままだ。今、見たことが信じられなかった。
遠くから救急車の音が近づいてくるのが分かった。ざわめきも聞こえる。そう考えながらも、わたしは意識を手放した。
目を開くと、白い壁――いや、天井が見えた。身体を起こすと、見覚えのあるパイプのベッドに寝かされていたことが分かった。。
「……保健室?」
「そう。君は道で倒れていたからね。とりあえず、意識が戻るまではここに寝てもらっていたんだよ」
カーテンをあけて、保健医が入ってくる。彼女は手に湯飲みを持っている。
「まず、お茶でも飲んで落ち着いて。それから、話をしよう」
差し出されたお茶を受け取って、ずずっとすする。温かいそれは、身体に染み込んでいった。
「さて、君のお友達のことだけどね」
「っ、佑布ですか? 彼女は……」
「生きてるよ。まだ意識は戻ってないみたいだけど、危険な時期は脱したって。数日後、一般病棟に移る予定らしいから、そうなったらお見舞いに行くといいよ」
その言葉にうなずく。言われなくても、そうするつもりだ。彼女はわたしのその態度をみて、一度カーテンの外へ出て行く。それから、紙を持ってきてつきつけられた。“早退届”と書かれている。
「だから、今日は帰りなさい。ゆっくり休んで明日笑えるようにすること」
その言葉に、素直にまたうなずいた。
右手には花束、左手にケーキ。
チンとベルの音がして、病院のエレベータの扉が開く。手にいっぱいの荷物をぶつけないようにしながら外へ出た。
「えっと、三三二は……」
掲示板で、あらかじめ聞いていた部屋番号を探す。しかし、歩き始める前に後ろから声をかけられた。
「佑布のおばさん……?」
前に会った時よりやややつれた顔をしていたけれど、間違えるはずがない。
「深緒さん? もしかして、佑布にお見舞いかしら?」
首を縦に振って訊ねる。
「えっと、佑布……渡部さんはどんな感じですか?」
おばさんは、ええ大丈夫と答えた後、ただ……と続けた。
「ちょっと、問題があってね」
言いよどむその態度に、疑問を感じながら、先をうながしてみると、しばらくして口を開いた。
「……あの子ね、いろいろ記憶が抜けているみたいなの」
病室の扉を開けると、数日前と変わらない表情の彼女がこちらを向いた。意外と元気そうだ。ただ頭に巻かれた包帯の白さが目に眩しい。
どんな表情をしていいか分からず、とりあえずぎこちない笑みを向けた。それに笑みを返してくれながら、彼女はおばさんに声をかける。
「えっと……お母さん。その子は誰?」
途端、顔から表情がなくなるのを感じた。すぅっと冷たい汗が背を伝う。
想像していた。
でも、期待もしていた。覚えてくれてるんじゃないか、と。
けれども発せられた言葉は、それを打ち壊すものだった。
とても仲良しだった相手が自分を忘れてるなんてこと、こんなにつらいと思わなかったんだ。
おばさんは、わたしの肩をぽんぽんっと叩いてくれた。
「あなたの高校の友達の柚原深緒さん。お見舞いに来てくれたの」
「深緒です、こんにちは」
それでも挨拶は難なく出来た。おばさんは花とケーキをわたしから受け取って部屋を出ていく。その後ろ姿を見ていると、声をかけられた。
「そこ、座って」
指差されたベッドの傍らに置かれた椅子に座る。すると、彼女の顔がちょうど目の前に来るようになった。彼女は微笑んで、呟く。
「深緒さんね? 綺麗な名前……」
ドキリ、とした。
高校ではじめて会った時も、同じ言葉で名前を誉めてくれた。
そうだよ。彼女は佑布なのだから、同じ言葉を口にしてもいいはず。
それでも正直、戸惑いが隠せない。
さっき誰?と聞いてきたのは、わたしが知ってる佑布じゃなかった。わたしを知らない佑布なのだ。
「あ、ありがとう」
ふふふ……と笑って、彼女はどういたしましてと答える。
「それよりも、ショックでしょ? 私にあなたの記憶がないだなんて」
「……正直言うと大分そう。でも、今は生きててくれて良かったと思う」
半分本心。でも半分は嘘。
記憶のない佑布にどう接すればいいのか全く分からない。その戸惑いが言葉の半分を嘘にしている。
わずかに胸の奥で、こんな状態なら……なんて、思ってしまう自分がいる。
そのマイナスな思いが浮かび上がってくるたびに、激しい罪悪感と戸惑いに悩まされる。
でもそんなわたしの思いも知らず、良かったと彼女は呟いた。
しばらくするとおばさんが戻ってきて、わたしからのケーキを皿に移してくれた。それをほおばりながら、他愛もない話をして時間をすごす。
「あの、面会時間そろそろおわりですけど……」
扉のところから顔を覗かせた看護婦さんが、遠慮がちに言う。それを受けて、わたしは立ち上がった。
「それじゃあ……」
「ねぇ」
服の裾を掴まれた。先ほどの笑みは消え、真面目な顔をしていた。
「ねぇ、また来てくれる?」
一瞬、返事が返せなかった。
佑布にまた会いに来る。ただそれだけの約束がすぐできない。
彼女はわたしを知ってる佑布じゃない。そのことが胸に引っかかってしまってる。
弱々しくゆっくりと、わたしは言葉を吐き出した。
「……うん。またね」
途端、ほっとした顔がのぞく。再び笑みを浮かべ、手をふられた。
「またね」
帰り道、自転車をめいいっぱいこいだ。ふと見あげた長い階段を上る。それから、丘の上の公園に入っていった。自動販売機でジュースを買って一気飲みする。
「はぁ……」
長いため息をひとつ吐く。途端に、身体から力が抜けていくように感じた。そして、マイナスな思いがふわりと浮かぶ。
わたしがお見舞いに行ったのは、友達の佑布。それでいて、わたしを知らない佑布。
今までのように接することも、邪険に扱うこともわたしにはできない。どう接すればいいのか分からない。
自己紹介して、彼女と距離を感じて。
名前を誉められたことで、佑布だと思って。
結論が出ないまま、ぐるぐると頭の中を巡る思い。
考えるのも疲れて、顔をあげる。夕焼けに染まる空と町並みが目に入った。
――ねぇ、深緒。こんな綺麗な風景見ちゃったら、もう悩みなんて吹っ飛んじゃうよね?――
いつかそう佑布は言っていた。だから、自分は落ち込んだら、ここに来るのだと。
「……無理だよ、佑布。吹っ飛んでいかないよ」
わたしは目を細めて、自嘲的に笑った。
それから、風景を見るのをやめて諦めとともに丘を下りた。
数日後、また彼女を訪ねた。
「……こんにちは」
そうっと顔を覗かせると、本から目線を外してこちらを向いた。ぱぁっと表情が明るくなる。
「来てくれたんだ、ありがとう! 深緒さんは優しいね」
そんなことない。
まだ接し方を迷ってる。約束だから、とりあえず来ただけだ。
そのことを隠すように、笑顔を浮かべて手元を覗き込んだ。
「何、読んでいたの?」
「えっとね……」
本屋でつけてもらうような紙製のカバーを外して、表紙を見せる。
「っ!」
驚いた。
前に彼女が好きだと言っていた、まさにその本。
ごくり、と喉を鳴らした。
「面白い?」
「面白いよ。主人公がとっても可愛いくって! 深緒さんも読んでみる?」
――この本ね、主人公がとっても可愛いの! 絶対、深緒もはまるって!――
これは、偶然の一致? それとも、必然? 自分に問いかけてみるけど、答えは得られない。
「うん、また貸してくれる?」
「いいよ。今私読み終わったところだから」
はいっと手渡された本を鞄の中に入れた。ことん、と音がする。目でそれを追っていた彼女は、鞄にぶら下げられていたストラップに手をのばした。
「あっ、それ可愛いね」
デフォルメされた羊のヌイグルミが先っぽで揺れている。首元には赤いリボンが結ばれていた。
「――あげるよ」
なれた手つきでそれを外すと、目の高さに掲げた。ふらふらと首を傾げるように羊は揺れた。
「いいの? ありがとう」
―それ、可愛いね。私も買おうかなぁ―
―あげるよ。わたし、もうひとつあるの―
―本当? ありがとう―
ちょっと前に交わした会話が浮かぶ。結局、あげずじまいだったけど。
「ここにぶらさげておくね」
えへへと笑いながら、パイプのベッドに結び付ける。
以前と同じように接するべきなのか、どうなのか。
今日も、散りばめられていた佑布と重なることを思い返して、また自分に問いかけた。
記憶なんて、関係ない? そんなことない。
だから、やっぱり分からない。
パイプ椅子から立ち上がって、手をゆっくり振った。
「今日はこれぐらいで。バイバイ」
すると、いつもと変わらない笑顔で言われた。
「またね」
それは木曜日の夕方だった。
わたしはいつもどおり、病院に寄って佑布と他愛ない話をしていた。
「え? もう、退院できるの?」
「うん! 明日退院して、月曜には学校にも行っていいって」
嬉しそうに笑っている。
対して、わたしは戸惑っていた。
学校に来る。そうすれば、関わる時間も長くなる。
ちゃんとわたしは彼女と向き合っていけるのだろうか。
「ねぇ、深緒さん」
いきなり近づいてきた顔に驚く。
「お願いがあるの」
どくん、どくん。
なんだか、嫌な予感がした。
「私のこと、佑布って呼んでいいから“深緒”って呼ばせて?」
どくん。
心臓の音がやけに大きく聞こえた。
沈黙のなか、わたしは少しの間息をするのを忘れていた。
だから息を吸った途端、言ってはいけない言葉が溢れ出す。
「っ、だめ! あなたは、深緒なんて呼ばないで!」
あなたは、佑布ではないから。
わたしの親友の佑布じゃないから。
迷いの答えは、こんな形で与えられてしまった。
途端に彼女の表情が曇る。次の言葉が、でない。
ぎゅっと拳を握った。顔を背けた。どうしても彼女の顔はもう見れなかった。
「バイバイ……」
背をむけて病室から飛び出す。
いつも続く「またね」はいつまでたっても聞こえてこなかった。
言ってしまった。
めいいっぱい、傷つけてしまった。
築きはじめられた関係は、崩れてしまった。
もう、戻れない。
それでも謝ることだけは、したかった。
これ以上彼女を傷つけたままにはしたくなかった。
退院の祝いと前日のお詫びに、花束とケーキ。奇しくも、最初のお見舞いと一緒で笑ってしまう。
あの時はこうなるなんて思ってなかったはず。
わたしは自嘲的な笑みを浮かべながら、病室へと向った。
入口で困ったようにうろうろとするおばさんを見つけて、近寄る。
「あの……どうしたんですか?」
「深緒さんっ、佑布の行きそうな場所を知りませんか!?」
いきなりの飛び掛かるようにしての質問に、うろたえる。
「もしかして……」
病室のなかに目を向けた。
そこには綺麗に整えられたベッドがある。けれど、そこに横たわっているはずの病人が姿を消していた。
「佑布がどこかへ行ってしまったの」
後ろからおばさんがそう呟いた。
わたしのせいだ。
昨日、あんな拒否したから。
「……ごめんなさい。探してきます」
ベッドの上に、花束とケーキを置いて、外へ飛び出す。彼女の行きそうなところを自転車で走ってみるつもりだった。
でも、彼女の行きそうなところなんて知らない。
だからぐるぐると町内をめぐるだけで、いっこうに彼女を見つけることができなかった。
ふと、空を見上げる。赤く染まった空に羊雲がただよっている。あの羊もベッドから消えていた。やはり捨てたのだろうか。
自転車を降りて、ゆっくり辺りを見回す。ふと、目の端に長く続く階段が映った。
「まさか、ね……」
佑布なら、何か悩みがある時、必ずここに来る。
でも今の彼女だったら、分からない。
分からないけど。
「行ってみよう」
自転車のスタンドを下ろして、その階段を上り始めた。
はぁはぁと息をついて、丘の上の公園に入った。何もかも赤く染められているなかに、彼女は佇んでいた。
その後ろ姿がいつかの彼女と重なった。
ややうつむいた頬にかかる髪も、落ち込んでいるときばかりは猫背になるその背中も。
なにもかもが、同じだった。
「……ちがう」
そこには、佑布が立っているのだ。
紛れもなく佑布が。
他の誰でもなく、親友の佑布……。
一粒、涙が零れ落ちた。つぅと頬を伝っていく。その間も瞬きせずに祐布の背中を見つめていた。
わたしは今まで彼女を違う人格として、接するかどうか迷ってきた。だから、祐布と同じことをする彼女に戸惑いを隠せなかった。
でも、それは間違っていた。彼女自身が、佑布なのだから、同じことをするのは当たり前のことだ。
何を悩むことがあっただろうか。
今までのように付き合っていけばいいんだ。
だから、赤く染められた背中に、こう声を投げかけた。
「佑布」
ばっと振り向いた彼女――佑布は、悲しそうな笑みを浮かべた。
「……深緒さん」
「ごめん」
間髪入れず頭を下げる。深く、深く。
「わたし今まであなたを以前の佑布と違うんじゃないか、なら今まで通り接しては駄目なのだろうって考えてた。あなたは、もうわたしの友達の佑布じゃない。そう思ってしまった。でも、違った。あなたは佑布自身であって、他の何者でもない」
ぽんっと手を肩に置かれた。構わず続ける。
「本当にごめん。昨日あなたを拒否してしまった。不安なはずの佑布を」
「ねぇ、深緒さん」
遮るように話かけられ、顔を上げる。
「それでも、わたしは記憶がないよ。今までのことを少しも覚えてないよ。そんな佑布でもあなたは受け入れてくれる?」
「受け入れるよ。たとえ、記憶がなくたってまた新しい思い出を作っていけばいいし、今までのことはわたしが教えてあげる」
今度は、即答できた。
前みたいに迷わなかった。
「ありがとう。ねぇ、お願いがあるの」
その言葉に昨日みたいな嫌な予感はもうなかった。
「何?」
「私のこと、佑布って呼んでいいから“深緒”って呼ばせて?」
佑布は笑っていた。
だから、わたしも笑って答えた。
「いいよ、佑布」
佑布といっしょに病院へ戻ると、心配のあまり目を赤くはらしたおばさんが駆け寄ってきた。
「ありがとう、深緒さん。さすが友達ね」
そんな言葉に一瞬驚いたけど、すぐ笑みを浮かべれた。
「そうね、友達だから」
祐布はその横で笑って、羊のストラップを振った。
「じゃあこれは、友達の証ってことね?」
捨てられたと思っていたそれを見て、わたしは嬉しさに満面の笑みを浮かべた。
佑布は校門の前でふと立ち止まった。
「緊張する……」
「大丈夫だよ」
ぽんとわたしが後ろから背中を押す。
「わたしがいるじゃない」
その言葉で、ほっとしたような笑みが浮かんだ。
「そうだね。私の記憶はかなたに行ってしまったけど、あなたの記憶を分けてもらえばいいものね」
その言葉に二人で笑いあう。
そうだよ、わたしがいるから大丈夫だよ。
鞄についたお揃いの羊は、それを主張するようにふらふらとゆれたのだった。
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