鉄の鳥
ざまねぇな、と呟いた声が、ほのかにこだました。独房の壁にもたれかかっていた俺は、その声のこだまを追うように視線をさまよわせる。そうしてから、もう一度、ざまねぇな、と今度は心の中で呟いた。
頭の中で思い巡らすことが、過去へとさかのぼっていくのに従った。そうしてたどり着いたのは思い出すのも苦いところだ。
独立戦争と称した大国との争いが終わったかと思えば、今度は共に戦った隣国との主導権争いという戦争が始まった。そのせいで、もうかれこれ十年は戦火が絶えない。
化学技術が発達していた為に、化学の力を利用した戦いが多く行われていた。だからか、戦禍は甚大なものとなっていた。それは広まり続けて、止まる事がなかった。
その中で俺が関わったのは、どこにも属さないという観念を持った集団で。戦禍に嫌気が差していた俺にその当時相応しいと思えた集団だった。
ただ観念だけが崇高だった、と知るのはそう遅くなかったが。
何をしている集団かと言えば、軍備の輸送を襲って奪ったりして、戦力をそぎ落としたり。それだけならまだいい。彼らは一般市民に対する配給まで手を伸ばしていた。
そこまで回想して、次に浮かんできた顔に自嘲的な笑いを向けた。
自分は化学研究をしていたことがあって、その知識を買われあの集団に関わっていた。その腕で火薬調合を行ったり新種の薬剤を開発することで、襲撃の手伝いをし始めた頃だ。
いい加減、力に訴えることには変わらなかった集団にすら嫌気が差し始めていた。そんな時出会った。
あいつに。
荒れたところのない綺麗な肌、着ている物の高そうな生地。いいところのお嬢さんという風貌で、彼女は煤けた頬と若干荒れ始めた指先をしていた。
いいところのお嬢さんが町に下りて、可哀想とお慈悲覚え召されたんだろうよ、と斜め目線で遠くから見ていた俺に、彼女は言った。あなたはとても淋しそう、と。
涼やかなその声が放った言葉に、隠していた真実を見抜かれているのだと思えた。俺は、確かに淋しい。戦火は何もかも俺から奪っていって、新たな居場所も物足りない。
呆然と立っている俺に背を向けて、他の方向へと歩き出していく。しかし途中で止まってこちらを見た。淋しいなら私とまたお話してくださいね、と言い残して。
あれから彼女と俺はよく会った。襲撃の現場へは余り出向かなかったから、時間だけはあった。頼まれた事は夜やればよかったのもある。
そうして彼女と俺の心が寄り添おうとするにはそう時間もかからなかった。
しかし白く美しい彼女は、家を飛び出して人の為に尽くそうとする程の善人だった。対する俺は、罪を犯す集団の一員だ。どうしようもなく恥ずかしかった。だから、何をしているのかは言えていなかった。
俺は彼女に見合う男になりたかった。
だから、集団から脱ける事を決めた。しかしそうすぐに辞められるものでもないと思った。とりあえずは貰っていた仕事を総て片付けてから、まとめ役のところへ出向いた。
予想に反して、彼はにこやかにその脱退に応じた。しかし条件をひとつつけられた。一度襲撃に参加しろと。
それで脱けられるなら、と思ったのが間違いだった。
俺はその襲撃において捕らえられ、独房へとぶち込まれた。おそらく仕組まれた。裏切る者には制裁がある、ということだ。
そうしてどれぐらい経ったのだろうか。ここでは時間が全然分からなかった。食事が一日一回だとしたら――おそらくその頻度だ――今日で八日になる。
襲撃に参加する前に彼女に渡した指輪はしてくれているだろうか。彼女が行っていた奉仕活動を手伝っていたときに、お礼として恰幅の良さそうな婦人から貰った赤い石のついた指輪。
今俺に確かめるすべはないだろう。
そう思ったところに、背後で音が鳴った。軽い金属の音。振り向くと、食事が置かれていた。冷えた具のないスープに固くなったパンが盆の上にあった。
ただ租借して栄養を吸収するためだけのそれを、手に取った。
独房に入れられてから、これで九日目だろう。それほど経っていない気もしたが、それは俺の諦念の所為かもしれない。
八回一度も変わらなかったその盆に、何か別のものが乗っているのが分かった。そっと拾い上げてみると、それが鍵であることが分かった。
鍵。言われるまもなく、これが何処の鍵のなのか、想像がついた。恐らく、この独房の鍵だ。
その予想を裏付けるように、金属の擦れる音が方々から聞こえた。それから人影。鉄格子の向こうを人が走っていく。外へと期待に満ちた瞳で。
俺は動かなかった。否、動けなかった。
彼女にはもう俺がどういう人間か明かされているだろう。俺を独房に入れるような組織だ。必ずそこまでやる。
そんな彼女にどんな顔をして会えというのか。手にした鍵を見つめた。
しばらくすると、金属の音も足音も聞こえなくなった。ただ、開け放たれているのだろう扉から太陽の光が差し込んできて、眩しかった。地下の独房だから、此処に入れられてから見ていたのは蝋燭のゆらめく光ばかりだった。久しぶりの沢山の光。あまりにも眩しくて、避けるように壁側に寄った。
床に当たった光の部分に、小さな影ができた。それは大きくなって、鉄格子に何かが舞い降りる。視線を上げると、その場所には小鳥がとまっていた。高い声が聞こえる。
きらり、と光が反射した。不思議に思って、よくよく見てみると、その鳥は鉄で出来ていた。
鉄。機械仕掛けの鳥だろうか。動きも何もかもが精巧に出来ている。声まで本物にそっくりだった。ここまでの作品を見たことのなかった。じっと見つめていたが、当の鳥は気にもせず、鉄格子を宿木にして羽を休めている。
まだ残っていたパン屑を鳥の方へ近づけてみた。食べるのだろうか。それは、俺の掌を長いこと見つめた後、素早くさらっていく。
機械仕掛けの癖に、食欲が備わっているらしい。まるで本物のようだった。
一日一回の食事以外に何もすることのない俺は、その鳥を見ながら、一日を過ごした。鍵は盆の上に戻しておいた。すると、それは皿と共に下げられてしまった。次の日には、また出てくるのだろうか。少し淋しい気持ちがした。好機を逃したような気分だった。
外から入ってくる光が弱くなった。それと時を同じくして、俺の瞼も下がる。眠りへと誘われて行く。
目を覚ますとまた光が強くなっていた。鳥は逃げなかったらしい。昨日と同じところに居る。そうしてまたいつもどおり、食事の載った盆が置かれた。
恐る恐るその盆の上を覗き込む。やはり、昨日と同じ場所に鍵が置かれていた。あえてそれを避けて、パンとスープを口へと運ぶ。少しのパン屑を鳥にやることも忘れない。
盆の上に空の皿を積み重ねた後、俺は鍵を手に取った。
別に、外に出たいわけじゃない。そう自分に言い聞かせながら。
それは俺に決断を迫ってるように思えた。自分を彼女にさらけ出す勇気があるのかどうか、と。
鳥がちゅちゅと小さな声をさせて、俺の巡る思考を止める。鳥の方を見ると、初めてそれはこちらを見た。首を少し傾けている。その感じに、既視感を覚えた。
そうだ。彼女がこちらを見た時と同じ首の傾げ方だ。高いこの鳥の声も、彼女の涼やかな声に似ているように感じた。
どうしようもなく、彼女に会いたくなった。自分がどう思われようが、会いたい。彼女を一目見たい。そう思って、立ち上がった。鉄格子の向こうに両手を差し出し、手にしていたままだった鍵を手探りで錠穴に差し込む。ようやくささったそれをまわすと、軽い音がして外れたのが分かった。もどかしく大きな音をさせて、落とす。そうしてから、重い鉄の扉を開けた。ぎぎぎと重たそうな音と振動で、小鳥が鉄格子から離れる。
出口へと飛んでいく機械仕掛けの鳥を追うように、走り出す。ここに入れられた時は長く感じた階段を、駆け上がる。外へと続く開け放たれた門を潜り抜けた。
そこで、足が止まった。
目の前は真っ白だった。光があふれていて、俺の目には何も入ってこなかった。
けれど、それは間違いだった。
地面にある物が、太陽の光を反射して増大させていた。
地面にあるのは――。
そこで俺は情けなく声をあげ、後ずさった。足は何かを踏んで、音を立てた。目をやると、人の指が第二間接辺りで途切れている。けれどそれは生き物の質感と違い、鈍く光っていた。そうして足を退けると、薄く延ばされた何かと、その中からばら撒かれたであろう小さな歯車が多数転がっていた。それで確信を得た。
地面にあったのは、鉄だ。
鉄、ならまだいい。それは人の姿を取っていた。顔が苦痛に歪み、そのまま固まってしまっているそれは、機械では造れない表情だった。
これは、人間だ。
人間だったものだ。
どう併せられたかは分からない。けれど、何かしらの化学物質が撒かれた。そうしてそれを浴びた人間は、総て鉄へと変化した。もう人皮を持たない。血も肉も持たない。ただ鉄屑としてしか価値のない物に。
その鉄の人間が、目をやれる場所総てに倒れていた。
これが何を意味するか、分かってる。ただ認めたくないだけだ。
この化学物質は、この町中に撒かれている。
だから俺を嵌めた集団のまとめ役も、俺と同じように独房に入っていて飛び出していった奴も、総て鉄屑となってしまった。
無論、彼女も――。
叫んだ。無性に叫びたくなって、そうした。
彼女はもう居ない。そう悟った。
認めたくない。だけど、事実だ。
叫んだ。叫ぶしかできなかった。
声が嗄れ叫ぶ力を失うまで、叫んだ。
叫べなくなった後は、その場に跪いて流れない涙を絞った。
そうするしか俺にはなかったのだ。
光が弱まり、夜を告げる。俺は緩慢に動き、もう一度地下へと戻る。飛び出した時は何とも思わなかった階段が再び長く続く階段へと変わった。時間をかけて降り、自分の独房へと戻る。今の俺に残されている居場所が此処だと思うと、何か皮肉めいた物を感じた。
鉄の扉を開けると、脇の鉄格子に止まった鳥がこちらを見た。戻ってきたようだ。
この鳥も、機械仕掛けとして生まれたのではなかったのだ。本物の生きた鳥だったのだ。それが何かを浴びて、機械仕掛けとなってしまった。
鳥が生き残って、人間が命までも盗られた。何となく、人間は弱い物なのだと感じた。
俺はそのまま支給されていた毛布に包まって、目を閉じた。
次に目を覚ました時にはもう日は昇っているようだ。光が入ってきていた。同じように食事を用意され、それを租借し鳥に分け与える。ただその繰り返しを続けていた。
ふと、疑問に思った。俺に食事を供給しているのは誰なのか。
外に出られる奴は皆、鉄屑になってしまった。だけど、俺には毎日きちんと供給がある。
需要が減ったからか、スープが前より温かくなって小さな具も入るようになったのは、感じていた。果たしてこのスープを作っているのは誰なのか、興味が湧いた。
いつも振り向かない食事の供給の時に、盆の置かれる辺りを見つめていた。手の甲ぐらいは拝めるだろう。俺と同じように未だ人皮を身にまとっているだろうか。
そっと鉄格子の下の横長になった隙間から、盆を持った手が差し出される。
俺は思わずその左手を掴んで引っ張った。その手は残念ながら鈍く光っていた。しかし、鉄になりながらも生きる事は可能だったのかと思う。
それよりも、俺の目は薬指に釘付けだった。そこに嵌っているのは、俺が彼女に贈った赤い石の指輪と同じ意匠だった。石も同じように赤い。
物陰に隠れるようにしていたその人の顔を覗き込んだ。
彼女だった。
もう居ない、そう思っていた彼女が目の前にいた。
あの時流れなかった涙が溢れて来た。
優しく左手を掴んだままだった俺の左手を包み込むように、彼女が右手を差し出した。
そうして静かに彼女が今までの事を話してくれた。鉄になったからか前ほど涼やかではないが、綺麗な声が独房の壁にこだました。
ちょうど鍵が置かれた頃、隣国が滑空機で何か液体状の物を撒いたらしい。雨のように降り注いだそれに身体が少しでも当たると、全身が鉄へと変化を遂げるようだった。そのまま命も失う。そうしてこの町は崩壊させられたらしい。そう思えば此処は隣国と接する町の一つだ。鉄と化した元人間を、重火器へと利用するつもりなのかもしれなかった。
彼女はやはり、まとめ役から俺の素性を聞かされていた。それを知って、俺に会いに来ようとしている時に、その襲撃は起こったという。手の甲に数粒かかっただけという彼女すら、全身が鉄で覆われていた。余程毒性の強い物なのだろう。
此処にはもう俺と彼女しか居ない、という。この生存している人数は外に出ても変わらないだろう。
鉄格子越しに、彼女と頬を合わせる。冷たい金属の感触が肌を通して伝わってくる。それが絶えなく悲しかった。
彼女はこのままだろうか。俺と共に地下に潜ったままだろうか。
化学者の端くれ、とも呼べない俺だけど、彼女を元に戻すことは出来るだろうか。機械仕掛けでなく、生身の身体に。
無意識にたどり着いたその思いに、俺ははっとした。俺なら、彼女を戻せるかもしれない。
そう告げると、あなたはまた私の元を飛び立つのね、と小さく呟かれた。
今思えば、淋しいと思っていたのは互いだった。淋しさの隙間を埋める様に、俺と彼女は寄り添った。
心は君の元に置いていく、と告げた。我ながら陳腐な台詞だと思うけど、仕方がない。それぐらいしか思いつかなかった。
その毒物の数滴がどれ程の威力を持っているのか、分からない。だけど確実に彼女の命を蝕んでいっているなら、俺は――。
俺はその毒を消し去りたい。そうして健やかにずっと共に過ごしていきたい。
戦火の中で、やっと見つけた俺の居場所だから。
鍵は開けたままだった鉄の扉を開けた。今度は遮るものもなく、彼女の身体を抱き締めた。なすがままにこちらに身体を預けてくる彼女の身体は冷たくて、そして鉄のきしむ音が小さく聞こえた。
耳元に口を寄せて、囁く。さよなら、ではなくて、いってきます、と。
彼女は頷いて、いってらっしゃいませ、と返して来た。彼女が顔を埋めた胸元が濡れたように冷たかった。
そっと身体を離した。彼女と目を合わせてから、その視線を逸らす。
目の前に、鉄の鳥がいた。その鳥はこちらを向いて、首を傾げていた。そうしてから、俺の前を飛んでいく。それを追いかけるように、俺は出口へと歩んだ。 長い階段をゆっくり上って、門のところに立った。
俺の前を飛んでいた鉄の鳥は、空へと上昇していく。
その青く透き通った空へと、溶け込むように。
小さくなっていく影を目で追った。それは俺の行くべき道を指し示すかのように、隣国の方向へと伸びていく。
俺は、一歩踏み出した。
心の中で、いってきますともう一度呟いて。
恐らく幻聴だろうがもう一度、いってらっしゃいませと聞こえたような気がした。
隣国との戦いは、その一年後に終結する。しかしその背景に、機械仕掛けから生身の身体を取り戻した一人の女と化学者の男の愛があったことは知られていない。
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