少女は幸福の絵画を描いた

 ある少女の話をしよう。小さな村で生まれ育った少女の物語を。

  ★★★

 音を立てて、少女は扉を開けた。中にいた母親が振り返る。
「ただいまー!! 元気にしてる?」
「ラス! 帰ってきたのかい」
 ラスと呼ばれた少女は頷いて、都からのお土産が入った鞄をつくえの上に置く。その傍らに母親が近づいた。
「都での生活はどうだい? 大丈夫なのかい? 偉い師匠さんを怒らしていないだろうね」
 そわそわと心配する母親に対して、大丈夫だって、とため息混じりに言う。
「師匠は粗相をしても、全然気にしない人。絵画には厳しいけど、他のことには無頓着すぎてあたしが行ってから結構生活水準上がったとか言われたぐらい」
 都の師匠のもとに、弟子入りして絵画の勉強をしているラスは、続けた。
「今回だって、都に出てきて半年だから懐かしい風景でも描いて来いってこの鞄渡されたぐらいなんだから」
 そう言って指差したのは、足元に置かれた四角い鞄。ところどころに絵の具が付いてマーブルの鞄になったそれには、絵の道具が入っているのだろう。
「そうかい、じゃあよくしてもらってるんだね……」
「うん、毎日本当に楽しいよ」
 つくえの上に、この村では見かけない珍しい果実を干したものや、缶詰などお土産を陳列していく。その中で、手に触れたものを見て、ラスはにんまり笑った。
「ねえ、ルネはどこ?」
「ルネなら、遊びに行っているよ。もうすぐ帰ってくる――」
「お姉ちゃん!」
 その言葉に二人は振り向く。ほらね、という母親に同意する。
「ルネ、おかえり」
「ちがうよ、お姉ちゃんがおかえり」
 うんそうだね、と苦笑して十歳離れた妹の頭を撫でる。それからお土産を渡した。
「ほら、お土産」
「わっバンダナ!」
 赤を地とする綺麗な刺繍の施されたバンダナを見て、ルネが嬉々とした声を上げた。結んで、という彼女の要求に、応えてやってそれで小さな頭を覆い隠す。
「じゃあ、ルネ。近所の人にお土産を配るのを、手伝ってくれる?」
「いいよ、行こう!」
 お土産を貰って上機嫌な妹が応える。母親もいってらっしゃいと送り出した。


 都から、というだけで商品価値の上がったお土産は、すぐに配り終えてしまった。皆がラスのことを心配してそうして都の話をせがむ。だから配り終えた後も、村の真中にある広場に長い間座っていた。
 そうして日が傾くにつれ、一人二人と輪から抜けていき、特に親しい数人が残っていた頃、隣の旦那が近づいてきた。
「ラス、調子はどうだ?」
「すごい好調。毎日がとっても楽しいんだよ」
「それは良かった。ところでなんだが」
 言い憎そうに口をゆがめた旦那に、首を傾げる。すると、彼が言った。
「呼んでる、爺々が」


 爺々と言えば、村の外れに一人で住む老人で、偏屈な爺として知られていた。家の前の畑で作った豆を村の皆と物々交換をして生活しているのだが、その交換も好条件でないと渋るという有様だ。
 正直言えば、ラスは得意でなかった。昔、豆を盗って目茶苦茶に怒られたこともある。当然、歩みも段々ゆっくりとしてゆく。
 妹のルネは、隣の旦那に家まで送ってくれるよう頼んだが、一緒に来てもらうべきだったかもしれないと思い始めた。それでも呼ばれたなら仕方がない、と腹をくくる。
 そのうち爺々の家が見え始める。見慣れた丸太を積み上げて作った家。しかし、明らかな違和感があった。じっと見つめながら近づいていくうちに、その原因が分かった。
「……もう豆を作っていない、のかな」
 家の前の畑は雑草が伸び放題になっていた。もうどれぐらい手入れしていないのだろうか。
 その畑を横切り、家の扉を三度ノックした。中からくぐもった声で、招き入れられる。ラスはため息と深呼吸を一度ずつしてから、扉を開けた。
「えっと、どこかなぁ?」
 それほど大きい家ではない。だが、人一人が住むには少し広すぎるのではないか、と言いたくなる様なその家の玄関からでは、彼の姿は見えなかった。
 姿を求めて、部屋の扉を開けていく。そのうちの一つで、爺々に出会った。
 彼は半年前と家の前の畑以上に様変わりしていた。ベッドの上で横たわっており、その身は前以上にやせ細っていた。もう病床について長いのかと思わせるやつれぶりだった。
「どうか、したの?」
「ああ――久しぶりじゃな、豆泥棒」
 昔の話を持ち出され、うっと顔をしかめる。それが見えたのかその偏屈爺はほくそえんだ。
「頼みがあるのじゃ」
「何、あたし早く帰りたいんだけど」
 投げやりに返すと、爺々はラスの手をとった。
「最後の頼みじゃ――」


 わしの絵を描いてくれないか。
 爺々はそう言った。最後のわしの姿を残してくれないか。
「そんなの、あたしに頼まなくても……」
 違うと分かっていて、声に出す。ラスが絵画の修行に出ていることを知っているのだ。絵もくれなくていい、という。ただ描いてくれ、それだけだと言う。
 祖父が亡くなった時を思い出す。祖父もああやってやせ細っていって、逝った。その時のことを思い出すと、おそらく爺々は長くない。
「――最後の頼みなんだから、聞いてやろうかな」
 ラスは頭上で手を組んで、気合を入れた。


 翌日、マーブル模様の鞄を持って爺々の家に向かう。扉をノックして、返事がないまま立ち入る。
「何じゃ、豆泥棒」
「あたしの名前はラス。覚えてよ」
 そう言いながら、鞄を開けて、組み立て式のイーゼルを取り出す。手際よく組み立てると、そこにキャンバスを立てかける。
「……描いてくれるのか」
「うん、そうだよ。描くよー」
 パレットを出して、端についている油壷に油を注ぎいれる。そこで筆を浸してから、凝り固まった絵の具の上に滑らした。
「お前、都の暮らしはどうだ」
「都? 楽しいよ、あたしはああいう賑やかなところがあってるのかも。師匠はあたしがいないと何もしない絵描き馬鹿だけど、そこがすごいから許せちゃう」
 ふふ、と爺々は笑う。
「絵は上達したのか」
「さあねー、まだ目に見えて分かるほどには上達してないんじゃないかな。でも、師匠に言わすと絵に深みが出たって」
 そうか、と言った後、爺々は黙りこんだ。沈黙がしばらくつづく。
「どうしたの、爺々」
「いや、あまり話さずにいたほうがいいのかなと思っての」
 ラスはふき出した。
「リラックスして、色々話してくれてた方がいいんだよ」
 さっきみたいにね、と言いながらキャンバスの上に茶で輪郭を描いていく。
「そうそう、爺々って独身だよね。結婚したいと思わないの?」
「何をいきなり」
「いきなりじゃないよ、村の皆が不思議に思ってることだよ」
 一段濃い茶で強調と修正をしていく。
「わしは、未亡人じゃよ」
「みっ」
 思わず筆が関係ないところに滑った。慌てて布でふき取る。
「……未亡人って、どういうこと」
 ていうか、未亡人って夫に先立たれた妻のことだし、とひとりごちる。
「婚約者がいたんじゃよ」
 結婚すらしてないんじゃないか、という突っ込みは心の中ですることにして、先を促した。
「なんでその婚約者と結婚しなかったの」
 筆についている色を布でふき取って、別の色に変える。またそれをキャンバスにのせた。
「――行方不明だから、じゃよ」


 ラスが生まれる数十年前、都では原因不明の疫病が流行って、次々に人が亡くなった、という。それの毒牙は貴賎関係なく襲っていく。貴族の者が倒れた場合はどうしようもないが、使用人が倒れた場合は代わりを欲し、それが田舎から調達されたという。
 無論、村の者たちは差し出すのを嫌がった。自分の息子や娘が疫病にかかるのを恐れたからだ。だがしかし、命令に逆らえるはずもなく、若い者たちは連れて行かれた。
「――要するに、そうやって都に出て行った一人だったんだね、その婚約者が」
「まあ、そうじゃな」
 疫病で亡くなったのだろうか、と予想を立てる。しかしすぐにそれは否定された。
「疫病で亡くなると、向こうで骨にされて皆それぞれ田舎へ帰る。じゃが、あれは帰ってこなかった。生きても、骨になっても」
 だから行方不明なんじゃよ、と呟く。その表情は、やや影を落としていた。思わず、筆を止める。
「……爺々」
 ずっと待っていたのだ、と分かった。帰ってくるという保障のないその婚約者を。ずっと、何十年も。
「なんじゃ、お前まで暗い顔をして」
 口角をむりやり上げて、爺々が言う。
「く、暗い顔なんか」
 慌てて乱暴に赤い絵の具を取り、キャンバスに塗りつける。それでも、手は段々止まっていく。
「――その婚約者は、どんな方だったの」
 その言葉に爺々がふきだす。
「お前とそっくりじゃったよ」
 豆が好きでな、と言う。
「あれは弟妹が多くて、面倒見のいい姉だったんじゃよ。底抜けに明るくて、将来は庭の畑で色々な豆を育てるんだと言っておった」
 ラスはふと窓の外に目を向けた。
「もしかして、豆を育ててたのは……」
 まああれのためじゃよ、と照れたように爺々が呟いた。そうして遠い目をする。
 その目を見てから、ラスがキャンバスの生地が見えている部分に目を向けた。爺々の顔が描かれた向こう側――すなわち、背景の入る場所に、筆を滑らした。


 キャンバスを壁に立てかけ、イーゼルを畳んだ。マーブルの鞄に汚れを落とした道具一式を仕舞いこむ。
「じゃあ、爺々。明日も来るから」
「何じゃまた豆泥棒の顔を見つめておらんと駄目なんじゃな」
「そんなこと言って、なかなか楽しいくせに」
 その言葉に、ふっと笑いをもらす。
「そうじゃな、昔語りもしたしの……」
 懐かしそうに目を細める爺々に、じゃあねと手を振ってその部屋を後にした。


 翌日は、ルネを連れていった。妹はラスが贈ったバンダナを巻いている。並んだその姿を見て、爺々が言う。
「なんじゃ、妹も今日は一緒か」
「まあね――爺々、部屋で寝てなきゃいけないの?」
 ベッドの上で上半身を起こしただけの姿にそう声をかけると、まあ外に出てもいいが出ても何も出来ないからのぅ、とはっきりしない返事が返ってきた。
「じゃあ決まり、今日は外で絵画を描くよ」
 室内から庭に木製の椅子を運んで、そこに爺々を座らす。ラスは昨日と同じ距離あたりにイーゼルを立てる。
「どれぐらい出来たんじゃ」
「まだまだ、爺々に見せるほどは出来てません」
 さあ描くぞ、と筆を油に浸す。ルネは言い含めておいた通りに、庭の草抜きを始めた。
「妹は何をしておる」
「豆畑を再生させてるの」
 勿体無いよ、と続けた。
「婚約者を待ち続けて、豆を育て続けた爺々の気持ちがつまってるのに、草ぼうぼうにしちゃって」
 お前楽しんでるだろう、と呆れ顔で言われ、少しはねとわざとらしく笑って返した。
 爺々の表情が和らいでいる。気分転換にもなったのだろう。ラスはその表情を捉えながら、キャンバスに修正を加えてゆく。人物は大体描けている。後は細かいところだけ。
 問題は背景だった。未だに生地が見えているそこに、昨日は下書きだけを済ませていた。今日はそれを薄い色をのせながら、絵にしていく。
 爺々は今日はそれほど話そうともしないようだ。庭を綺麗にしてゆくルネの姿を見つめて、ゆっくりしている。だからラスも絵に集中して、色を乗せていく。
 空、庭、木々。最初は薄く塗っていた色をより濃く、より写実的にしてゆく。
 それだけで大分の時間を使った。
 そのうち空は段々色が変わってゆく。来た時は薄い青だったが、赤へと変えてゆく。それがいい色だったので、青で塗っていたそこを、それに変えていく。
 油絵の良いところは、上から重ね塗りできることだ。昼から夕方へと変わっていく空のように、キャンバス上も変えた後、今日は終わり、と筆を布で拭き清めた。
「さあ、爺々。部屋に戻ろうか」
 そうじゃな、と応じた爺々を支えながら、ルネが働いた畑を見た。見た目ほど大きな畑じゃなかったらしい。ほとんど草が残っていなかった。
「豆は、今の時期植えるものじゃなかいから、もっと後だね」
 爺々に話すと、その通りじゃとうなずく。それから隣を歩いていたルネの泥だらけの手を握った。
「ありがとう、じゃな。今度、豆の種をあげような」
 うん絶対植えるよ、と嬉しそうな声で応じると、爺々も嬉しそうだった。


 夜、自分の部屋で描きかけの絵を眺める。そうしてある部分をなぜた。ここに描こうかどうか迷っているものがあるんだよな、とひとりごちる。
 明日。それがこの絵の完成日。
 爺々が気に入ってくれるといいな、と言いながら、壁に立てかけた。


 次の日は朝から爺々を訪ねた。前の日と同じく、ルネと一緒に外へ出て、絵を描いた。昨日のうちに草を抜いてしまったルネはいたずらに土を掘り返しては、ミミズと戯れていた。
 全体的な色をそろえたり、手直しをする。爺々の顔をじっとみて、見逃した特徴がないか観察して、描き込んでいく。
 昼前に、絵は完成した。
 ラスは最後に絵筆に色を乗せた。前の日なぜていた部分に、ある絵を描いた。
「よーし、出来た」
 筆をぬぐって、置いた。爺々が身を乗り出した。
「ルネ、手を洗っておいで」
 その言葉に何があるのかと期待しながらかけていく。土をすっかり落として帰ってきたルネを呼び寄せて、絵を渡した。それを爺々に渡してくれるよう、頼む。
 ルネの小さな手がキャンバスを掴んで運んでいく。爺々が手を差し伸べた。そうして絵と対面する。
 一枚の絵は、右半分に爺の正面より少し斜に見た顔が描かれている。和んだ表情をしていた。その後ろに、夕日と庭の畑。それは今の何もない畑ではなく、昔ラスが見た豆がたくさん生った畑だった。そうしてその向こうに小さな人影がひとつ。
「……ラス」
 キャンバスを握る手が震えていた。どうしたんだ、と顔を覗き込むと彼は必死に何かをこらえていた。その中で、ラスを呼んだ。
 続いて聞こえた。ありがとう、と。
「爺々、気に入ってくれた?」
 返事はない。けれど、ラスは確信できていた。だから、爺々を一人にしてあげようと考えた。
「じゃあまた夕方に来るよ」
 そう言ってその場を後にした。


 もう一度日が沈む前に訪ねると、爺々が手を上げて、合図してきた。前の日と同じように、肩を貸して部屋へと戻る。その間、ラスが描いた絵は妹のルネが抱えていた。
 ベッドの上に戻ると、手を伸ばして絵を求める。そうしてもう一度対面してから、口を開いた。
「……良い絵じゃな」
 しわしわの手が、絵の中の小さな人影をなぜる。
「あれは、ずっと帰ってこなかった」
 でもずっと待ち焦がれていたんだと、分かった。
「今、あれはこうやって帰ってきてくれた」
 そう言った爺々の表情は、今までと違って幸福に満ちたものだった。
 絵は爺々に贈ることにした。


 翌日、朝と昼が一緒になった食事をひとり摂っていると、隣の旦那が訪ねてきた。
「ラス、食事中すまないが、これを渡してくれと言われたから」
 布に包まれたそれは、前の日爺々に贈った絵だった。
「爺々は今朝、薬師が看取った。この絵を返してくれ、と言い残したそうだ」
 看取った。その言葉はしばらく経ってから、ラスの心に落ちていく。絵の中の爺々は和やかな笑みを浮かべて、何も言わない。
「爺々は誰も見たことのない笑みで、逝ったそうだよ」
 ラスはその慰めに、どんな表情をしていいのか分からなかった。


 それから半月を田舎で過ごし帰ってきた都は、なぜか他人行儀に感じて、すぐに師匠の所へ逃げ帰った。
「ああ、帰ってきたのか」
「師匠……」
 マーブルの鞄を置いて、椅子に腰掛けた。
「どれぐらい、絵がかけた? 見せなさい」
 そう言われても、一枚しか描いていなかった。あの一枚だけ。しぶしぶ鞄から取り出して渡す。
 師匠は受け取って、しばらく無言で眺めた。
「――ラス。私が美しいと思う景色は、朝日と夕日だ」
 絵の背景の部分をなぜた。
「人間も同じだ。生まれた時は希望に満ち溢れている」
 そして、と続ける。
「逝く時は、手一杯の幸せを持っているんだよ」
 良い絵を描いてあげられたね、と師匠が言う。それが引き金となった。
 ラスの瞳から、涙が落ちた。
 どうすればいいのか分からなかった感情が、そうして外へと流れ出ていった。
 師匠は何も言わず泣き出したラスの肩を抱いた。


  ★★★

 後に、この少女は何枚もの肖像画を描いた。いつしかそれはこう呼ばれるようになる。
 「幸福の夕日の絵画」と。
 これはその最初の絵画の物語である。

BOOK
蒼傘屋