Thank you.

 シマッタ。
 いつもジョンが口走るそれは、まさにこういう時につぶやくべきだろうか。
 そんなことを考えながら、私は立ちつくしていた。
「……どうしよう」
 エドという町は、見事に異国人のいない町だった。慣れたナガサキと、同じ国とは思えないほど、黒髪と着物にあふれている。
 私は通訳役のジョンと共に、ショウグンという偉い人に会うため、ここまで来たのだが。
「迷子になるとは、思わないよな……」
 土ぼこりのたつ道で、右にも左にも歩き出せず、ただ立っていた。ジョンは日本人だが、背が高い。服も着物ではないから、近くにいるならすぐ目につくはず。だが、見回してみてもそんな人はいないから、私は置いてきぼりになったのだろう。
 大きくため息をついた。一度、シマッタと口走ってみたが、何も変わらない。
 ハンカチを取り出して、たれてきた汗を拭く。そのまま、握りしめた。
「っ、ジョン……」
 視界の端に捕らえた全身黒のもの。思わず追いかける。けれども、声をかける前に肩を叩かれた。
 振り向くと、一人の少女が立っている。
『すみません、異国の方。えっと手巾を――』
 日本語で話しかけられた。分からないので首を傾げると、意を汲んだのか、左手で私の手をとった。右手に持っていたものを、置かれる。
「……ハンカチ」
 さっき落としたのだろうか。それを握りしめると、彼女はほっとしたように笑った。
『よかった、間に合って』
 少女の顔をみながら、ふとさっき見た黒が気になって振り返ると、それは彼ではなかった。黒づくめの着物を着ている日本人だった。
 落胆しながら顔を戻すと、彼女はまだいて私を見上げていた。
『……もしかして、はぐれてしまいましたか?』
 何か言ってから彼女は日本語が通じてないことを思い出したように、身振り手振りで何かを尋ねようとした。私は自分の状況を伝えようとしたが、通じないようだ。
 言葉と言うのは本当に難しい。そう思って、手を下げようとした時だった。
 ぐーー。
 盛大に鳴ったのは、おなかだった。彼女は思わず、吹き出す。私は恥ずかしくなりながらも、そういえば迷子になったのは昼前でなにも食べてないなぁとおなかをさすった。
『おなかがすいてるんですね』
 彼女は笑いながらもう一度、私の左手をとった。ぐいぐいと引っ張る。
「ちょっと、どこへ?」
 引っ張られるままに、私は彼女のあとをついていく。道々、いい匂いが方々から漂ってきて、おなかの虫は鳴り止まぬどころか、大合唱だ。
 その中で、彼女が扉を開けたのは、一軒の店のようだった。ノレンといったか、店の扉の前に布がたれ下がっている。何か、書かれているが、無論私は読めない。
 扉の内へ導かれるまま、入ると彼女は腰エプロンらしいものをつけた女性に声をかけた。
『ねぇ、雑炊ふたつ!』
『……あのね、あたしの店は蕎麦屋なの。いい加減、変なもの頼まないでよ』
 何か文句を言われたらしい少女は、私を指差してなおも何かを言う。私はそのまま、立ってどうなるかを見ていた。といっても、何も分からないのだけども。
『異国の方をお連れしたの。いいでしょ、多分お箸なんて使えないんだから。さじで食べれるもの、頂戴』
『あー、はいはい。分かったわよ。今作るから座ってて』
 女性の方が折れたようだ。少女が嬉しそうな顔をしたのと、女性の方にも諦めが浮かんでいた。表情だけでも面白い。
『こっちこっち、はい座って』
 手を引かれるままに付いていくと、木製の四角い机と椅子。そのひとつの背を彼女が叩いて、私を見た。
 多分、座ってと言っている。そう思って、腰をこわごわと下ろすと、満足そうに笑みを向けられた。読みは当たっていたらしい。彼女も向かいに座った。
 しばらくすると、先ほどの女性が二つのトレイを運んできて、それぞれの前に置く。湯気を立てたそれは、米をやわらかく煮たもので、木のスプーンが置かれていた。
 ちらりと少女を見る。彼女はそのスプーンを使ってすくい、息を吹きかけてから口に運んでいた。
 恐る恐る私も、倣ってみる。スプーンですくって、口へと。
「あっ、熱っ!」
 意外なほど熱かった。日本人というのは、こんなに熱い料理を食べるものなのか。
 本国ではぬるいか冷めているかという料理しか出てこない。こんなに出来たばかりといった風の熱さのものを食べたのは初めてだった。涙目になりながら、口を押さえた。その動きで分かったのか、少女がカップに水を汲んできてくれた。
「すまない……」
『大丈夫ですか?』
 受け取ってのどに流し込む。冷えているというより、少しぬるかったけど、それが逆に心地よかった。そうやって落ち着いてから、またスプーンを持つ。
「うん、おいしい」
 言葉は通じないから笑いかけてみると、彼女も笑い返してきた。
『おいしいでしょう?』
 少し時間がたったからか、やけどするほどではなくなった、それでも温かい食事だった。


 おなかも一杯になったが、お金が無かった。どうしよう、と思って振り返ると、彼女はもうお金を払ったあとだった。気になったが、どうしようもない。そのままご馳走になっておくことにした。
『ねぇ、ちょっと付き合って頂戴』
「え、なに」
 彼女はいきなり、腕を引っ張る。ずんずんと引っ張っていくので、どこかジョンがいそうなところでも知っているのかと思って、おとなしくついていく。
 同じような角をいくつか曲がる。周りの日本人は、ちょっと引いて私達を見ているが、彼女は気にしていないらしい。
 引っ張られるままに進んだ先は。
「……ここは、なに?」
『せっかくだから、日本文化に親しんでいってよ』
「ここには、ジョンはいないだろうなぁ……」
 そこには二階建ての建物が堂々と立っていた。私が見上げた屋根の上には、人物の描かれたイラストが飾ってある。文字も書いてあるが、当然読めない。だが、私たちの向かうはずだったシロとやらとは似ても似つかない建物だった。
 開け放たれた入り口から一度少女は入っていく。しかし、私が後に続かないのをみて、また出てきた。
『はやく、もう始まってるから』
 腕をつかまれ、中へと引きずりこまれる。わけも分からぬまま従っていくと、もう一つの入り口があった。そこも通り、中へと入ると、舞台があった。
 ここは、劇場か。
 上を見ると、ボックス席はいくつかあるようだった。だがしかし一階に座席はない。そのかわり、タタミがひいてある。
『ここ、空いてるから座ろう』
 ゾウリを脱いで、先に上がった少女が、タタミを叩く。しかたなく、そこに腰を下ろして、ブーツの紐を緩めた。足を抜こうとした時だった。
 耳をふさぎたくなるような大声が、背後からとんだ。驚いて後ろを振り返るが、逆に怪訝そうな顔をされる。
 そういえば周りを見回しても、誰一人驚いている人はいない。それどころか同じように叫ぶ人もいる。隣に座っている少女を見ても、何事もないかのように舞台に目を向けている。
「……これで、いいんだ」
 その声は、恐らく場を盛り上げるものだった。静かにしている必要は、ここではないんだ。
 楽しそうに笑う声。それは舞台の上の人にも、伝わっているのだろう。
 言葉は分からない。だから、話は分からない。でも、なんだか楽しくなって声を上げて笑った。
 なんだか暖かい雰囲気だった。


 劇場から出て、道を歩く。私たちは、笑顔だった。言葉がなくても、同じ気持ちだろう。
 少女は私の腕を変わらず引いて、どこかへと導いていくようだ。そのまましたがっていくと、ひとつの建物の戸の前で止まった。そのまま見上げている顔は心なしか、不安そうだ。
『多分、この宿に泊まってると思うんだけど……』
 私を置いて、彼女が入っていく。外で待っていると、ある人を連れてきた。顔を見て、叫ぶ。
「ジョン!」
 呆れ顔の彼が、ため息をついた。
「あなたって人は……目を離すとすぐにいなくなるんだから」
 少女の方に向かいなおす。
『どうもありがとうございます。ここまで連れて来て下さって』
『いいえ、困っている人をみたら、助けるのは当然です』
 彼女も笑って応対していた。二人が会話しているのをみて、ちょっとうらやましくなった。こういう時、言葉が通じればと思う。
 少女が私のほうを向く。
『見知らぬ方なのに、今日は芝居に付き合ってくださってありがとうございました』
「い、いえ、こちらこそ、楽しかったです。助かりもしました。Thank you」
 ジョンを通して伝えられた彼女の言葉は、なんだかよそよそしかった。こちらの言葉もそう伝わったかもしれない。
 先ほどよりも少し遠く感じて、ちょっと寂しかった。


 ホテルに入って、ジョンが口を開く。
「まあ、あなたが何かに気をとられるのは、分かっていたことなのに、気を抜いた私も悪かったですね」
 頭をぽんぽんと叩かれた。
「あなたを一人にしてしまって、ごめんなさい。異国に一人ぼっちなんて、さそがし寂しかったでしょう」
「……そんなことなかったよ」
 たしかに、本国の仲間はひとりもいなかった。でも、あの少女がいてくれた。だから、さみしくなかった。とても楽しかった。
 あんなに言葉は通じないのに。ただ、日本という国にとても興味がもてた。


 あれから数日。シロでのショウグンとの会合も済み、ナガサキへと戻る船に乗ろうとしていた。ナガサキからまた、本国への船へと乗り換えて、私は帰るのだ。
 他の仲間が乗り込んだ後を、私もついて行く。ジョンが最後だ。
 と、ジョンが背中をつついた。
 何、と振り返ると、そこにはあの少女が立っていた。手を振っている。
「どう、して」
「あなたがお世話になったお礼を持って行った時に、帰る日を聞かれたんですよ。そうしたら、見送りに来てくれたようですね」
 私はきびすを返して、彼女の元へと行った。見送りが嬉しかった。ほかほかと心が温まるような気がした。
 そう、伝えたいのに、言葉が分からない。
 通じない。
 どうしようと思ったところに、ジョンが横に立った。通訳してくれようと思ったのだろう。
「ジョン、感謝をあらわすときは、日本語でどういえばいいんだ?」
 彼はわずかに目を見開いた。通訳がいるのだから、日本語をわざわざ聞く必要はない。だけど、彼には何をしたいか、伝わったようだ。すぐに、教えてくれた。
 それから、少女の方を向いた。
『アリガトウ』
 彼女は驚いたように、きょとんとした。だけどすぐに、笑って言う。
『わたしも、ありがとう』


 船が出港してから、私はジョンに話しかけた。
「とても、いい国だね」
「そうでしょうかね」
 この国の出身のジョンは、賛同しなかった。
「そうだよ、いい国だった」
 ナガサキの異国人が集まっている中では分からない。日本人の中、一人になって知った。
 この国が、あたたかい国だということを。
「ジョン、私本国に帰ったら、日本語を学ぼうかな」
「ぜひ、そうしてください」
 うなずいた。
 そして、次あの少女に会えたら、伝えよう。
 この国の言葉で、このあたたかい気持ちを。


蒼傘屋
突発性競作企画 23 “独りぼっちの異邦人”

Copyright(C) 2009 Wan Fujiwara. All rights reserved.