◎ 。 ゜ 。 。 ゜ 。 ◎
◎ ○ 炭酸のないラムネ ◎ ○
○ ゜ 。 。゜ ゜ 。 ゜ ○ ゜
゜ ゜ 。゜ ゜
その瞬間、俺はどうしようもなく走り出したくなった。
これこそ、恋に落ちる、ということだろう。
一目見た瞬間、顔に血が昇るのが分かる。何も考えられなくなる。ただ、彼女から目が離せない。
茶に染めて巻かれた髪に、日に焼けるなんて無縁に思える白い肌。汗ひとつ浮かんでいない顔は、目鼻立ちがはっきりしていて、上を向いたまつ毛が揺れていた。白いセーラー服を清楚に着こなし、揺れるスカートが涼しげだった。
俺だけじゃない、男子達はみんな色めき立つ。そりゃそうだ、彼女に比べたらこの村の女子なんて、みんな芋だ、芋。
「……なに、凝視してんのよ」
隣に立っていた幼馴染の幸子(ゆきこ)がほっぺたをつねってきた。
「いだだだだっ、何すんだよ!」
「馬鹿面かかげて、呆けてるからでしょ」
つーん、と言いながら、あらぬ方向を向く彼女を、ほっぺたを抑えながらにらんだ。結構痛いんだよ、これ。
都会的な彼女とは大違いだ。洗っただけという風情の黒髪、焦げた汗ばむ肌。口なんて大きくて、田舎っぽい。お前と違って、彼女ならそうはしないだろうなんて、言うだけ無駄か。
「ジュースで例えるなら、トロピカルジュースって感じだよな」
と、これは友だちの忠男の意見。ジュースに例えるなんて失礼な。
田んぼと田んぼと畑と田んぼ。そんな『ど』がつくほどの田舎には勿体すぎるほど都会的で垢ぬけた彼女がやってきたのは、夏休みだからとこのあたりを視察しに来た議員だという父親の仕事についてきただけらしい。二三日したら、すぐ帰ってしまうそうだ。残念だ。ずっといてくれてもいいのに。
そんなこと言っていたって、すぐ別れは来るもので。
彼女はあっさり地元へ帰って行ってしまった。同じ県内とはいえ、山間部と海沿いの街では、遠すぎる。しかも、ここはバスが日に何本かのど田舎だ。
「おい、聞いたか」
隣にいた忠男が話しかけてくる。
「あの子、陸上部らしいぞ」
「……だから?」
「しかも、学校は中体連の県大会常連校」
市の予選勝ち抜けば、また会えるって寸法だよ! と興奮気味な彼の肩をつかむ。
「――本当かよ。その情報」
「本当だよ! うちの妹が、大胆にも聞いてきたんだぜ」
その瞬間、俺はどうしようもなく走り出した。
坂も何もない、ただ周りは田んぼだけのあぜ道をひたすら、走る。走って、走って、走って。スニーカーが泥だらけになっていく。蝉の声がその他の音を消していく。影もなく、俺を容赦ない日差しが襲う。それでも、走った。
中学校の部活では、すぐさま陸上部に入部した。今まで入っていた部と兼部になるけど、仕方がない。もう一度彼女を見たかった。一言でも、言葉を交わしてみたかった。
同じ邪な考えの奴らは、たくさんいたらしい。うちの中学校の男子の四割が陸上部に入ったという。先生は、単純に喜んでいたけど、冗談じゃない。まず校内予選を勝ち抜かなければいけないはめになった。
運動場なんて、お遊びの分しかない。俺はひたすら村の中を走った。じりじりと肌がやける音がする。それでも走った。止まって、汗を拭う。そしてまた走った。
何度目かに止まった時は、もう足ががくがく言っていた。でも、もっと走りこみたい。ただ走っているだけなのに、全身が重たかった。思わずその場にへたり込む。もう立てないかな、と周りを見回した。
日に照らされた青い稲穂が揺れている。そんな風景が遠くに見える山のふもとまで延々続いている。何でここはこんなに田舎かなぁ。都会だと、整備されたグラウンドとかあるんだろうなー、なんて思いをはせてみる。そんなところで練習してたら、そりゃ足も速くなるだろう。
そんなことをつらつら考えながらしゃがみこんでいたから、びっくりした。
「!!」
いきなりほっぺたに後ろから冷たいものがあてられる。振り返ると幸子が不機嫌そうに立っていた。手には空色に光る汗をかいたラムネ瓶を二本持っている。そういえば、さっきラムネ売りのおじさんとすれちがったような気がする。
「ほら、ちょっとは休憩しなよ。ずっとっていうのも身体に悪いんだから」
手にしたうちの一本を渡された。さんきゅ、と言いながら、素直にビニールを向いてビー玉を押し落とす。それを見たら、喉がかわいていたのを思い出した。ビンを傾けて、喉を鳴らす。
「あ、それあとでお金払ってよ」
「っとおごりじゃねぇのかよ」
「何であんたにおごらなきゃいけないのよ」
隣に座りこんだ幸子が自分の分もビー玉を落として、飲み始める。少しずつ、休憩しながら。俺のラムネ瓶はとっくに空になっているのに、彼女のはまだ半分も残ってる。そういえば。
「……お前、炭酸苦手だったよな」
「うるさいわよ。苦手だって、飲みたいときがあるの」
「飲めないなら、くれよなー。俺好きなのに」
「あげるわけないじゃない!!」
いきなり立って、瓶を大げさに傾ける。ビー玉が居場所を探して揺らめいた。彼女の喉が鳴る。ゆっくり、でも少しずつ幸子の長い一気飲みは続いた。
瓶を空にして、ぷはっと言いながら、彼女は俺をにらんだ。
「なんだよ」
「……何も」
瓶貸してよ、と俺の右手から奪っていく。何も言わずにそのまま、彼女はラムネ売りのおじさんが消えた方向へと歩き出した。
毎日、ひたすら走る。蝉の鳴き声と強烈な日差しと猛暑の中、ずっと走っていた。田んぼで作業する近所のおじさんが、毎日精が出るな、なんて笑っていた。忠男は早々に諦めたらしい。応援するからね、と時折走ってる俺を見に来る。見に来るだけだが。
俺はスタートダッシュが早いわけでもないが、持久力はある方だと思う。初日はきつかったけど、そうやって一日中走っていても、次の日立てないほどの筋肉痛になるわけでもなかった。むしろ、ますます持久力がついたのか、朝もしっかり起きれるようになった。
その甲斐があったのか、はたまた俺が希望していた千メートルは希望する人数が少なかったせいか、市の予選大会に出れることになった。
ますます、練習しなくては。目指すのは、県大会なのだから。市の予選を勝ち抜けば――。
それを考えると、俺はどうしようもなく走りだしたくなる。
今日も今日とて、走り続けていた。もっと速く、速くなりたい。ただそう思って。
すごく走るのが楽しかった。ただ走っているだけ。それだけなんだけど、楽しかった。
休むことも忘れて、ただ走り続けていたら。
突然のめまい。
暗転。
最後に感じたのは、ほっぺたに当たる砂利の痛みだった――。
「ぶはっ、何すんだよ」
「あ、起きた」
目を開けると同時に、目に降りかかってきたのは――ラムネ水?
思わず身体を起こそうとすると、めまいに襲われた。反対に倒れこむ。
「落ち着きなよ」
俺にラムネをぶっかけていた当の本人……幸子は、不機嫌そうにラムネ瓶を元に戻した。一本のうちの半分ほどが消費されている。もったいないことをしやがる。
「だから、忠告したでしょ」
今はこれしかないけど、ないよりましでしょ、と封を開けていないラムネ瓶を手渡してくる。頭がガンガンする。思わず額にあてると冷たくて気持ちいい。汗が冷えたのか肌が冷えているが、体温はむしろ上がってる気がする。
そこで自分が影にいることに気づいた。意識がなくなったときは、日差しのもとにいたはずだ。
「熱中症で倒れるなんてさ。水分足らないんだから、とりあえずそれでも飲んでおきなよ」
俺の傍らにしゃがみ込んだ幸子の言う通り、手にしていたラムネ瓶のビー玉を落とした。喉へ流し込むと、冷たくて気持ちよかった。ごくごくと音を立てて飲みほしていく。
「……そこまでして、会いたいの?」
「は?」
幸子は下を向いている。表情が見えない。
「彼女に会いたいのは、都会的だから? 目鼻立ちがはっきりしてるから? おしゃれしてるから?」
「あっ、えっと……」
確かにそういう動機で始めたのを、今思い出した。言葉に詰まると、彼女が続けた。
「――びっくりしたのよ」
あんたが道の真ん中で倒れてて、と。
「下手したら、死んじゃうんだよ。あんたもそうなったのかって一瞬思ったじゃん。脱水症状になったら危険だからって、あまりに暑いから気をつけなきゃ熱中症になるよって学校からも言われてたじゃない。そんなにがんばってまで彼女に会いたいの? 死にそうになるまでやらなきゃいけないことなの?」
何だろう。確かに最初はそういういわゆる不純な動機だったけど、走っているうちに消えて行っていた。今はただ走るのが楽しかった、もっと速くなりたいと思っていた。
突如、ぽたと土の上に置かれた幸子の手に、滴が落ちた。
「……何、お前泣いてるんだよ」
「泣いてないもん」
鼻声での返事。やっぱり泣いてるじゃないか。
「あんたなんか、もう知らないから。脱水症状でもなんでもなっちゃえば良いんだから」
ぐずぐずと鼻を言わせながら、そっぽを向く。そんな彼女の頭をはたいた。いたっと小さく声がする。
「お前馬鹿だなー。俺がいつまでも、そんな不純な動機で物事が続くタチかよ。お前に言われるまで、そんなの忘れてたって。今は走るのが楽しい、それだけ。いいか?」
しばらく経って、そうだったね、と小さく返ってきた。
「だから早く泣き止めよな。お前がそんな態度だと、なんか炭酸抜けたラムネみたいで、気持ち悪い」
「きっ、気持ち悪いって!」
失礼ね、と怒ったようにこっちをにらんでから、幸子が笑った。
ちょっと胸が鳴った。彼女の笑顔は久しぶりだったから。
市の予選大会は、案の定付け焼刃だからか、ダメだった。
「残念だなー、お前が県大会行ったら、応援でついていって会えたのに」
忠男がそう言う。他力本願すぎるだろ。
「お疲れ様ー」
後ろから肩を叩かれたのを受けて、振り返ると幸子が立っていた。決勝にすら残れないようじゃダメだな、なんてこぼしたら。
「良かったね、彼女に会えなくて」
なんて、彼女はいつものように意地悪そうに、それでも笑ってる。
「まあ、帰ろうよ。おばさん、お疲れ様会開いてくれるって」
忠男が俺の肩を叩いた。そのまま出口へと向かおうとする。
けど、見られた気がして振り返る。幸子がやさしい笑顔で立っていた。初めて見る顔かもしれない。
こっちが見ているのに気づくと、すぐいつも通りの顔に戻ってしまった。
「ほらほら、なにぼんやりしてるの。帰るんでしょう?」
口を尖らして言う彼女に、苦笑してまた歩き出す。
ホッとした、なんて口走っていた彼女の小さな本音は、からかわずに胸にしまっておこうと思った。
蒼傘屋
競作小説企画 第三回「夏祭り」
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