恵みの雨
 SECTION 1
 狭い部屋に、煙草の煙が充満している。独特の匂いが室内を埋め尽くしていた。暗がりに人影がうっすらと見えるが、誰も言葉を発しない。じっとただみじろぎせずいるだけだ。どちらがそうさせるのか、息苦しくなってきた俺は、外に続くアルミの扉を開ける。その前のコンクリートの階段に腰を降ろし、胸から紙のパッケージに包まれた煙草を取り出した。シガレットケースなんて洒落たものは持ってない。空になったパッケージを潰して放り投げた。軽いそれは、風に吹かれて転がって行く。ぼんやりと目で追うと、それは小さな靴の前で止まった。大きな影がさしている。目線をあげると、黄色い傘を差した少女が立っていた。まだ小学校前だろう。その証拠に、肩にかけた鞄が幼稚園バックのように見えた。背中の中ほどまでの髪を二つのおさげにしている。普通の子どもだ。しかし、その中で異色だったものが気になった。
「……何で傘、さしてやがんだ」
 雨降ってねぇだろ、と続ける。
「これから雨が降るから」
 小さいけどはっきりした声。たがその内容に、顔をしかめた。雨、だと? 『日照り街』の異名を持つこの街に雨が降ると? そう考えると、ひとつしか浮かばなかった。
「……血、のか」
「血……?」
 首を傾げられた。余計なことを言った、と眉間にしわを寄せる。
 ヒテルマ。それがこの街の名だ。日照り街の異名どおり、雨はほとんど降らない。三年に一度降れば良い方だ。そんな街だからこそ、貴重な水を争い、人々は他人を押しのけようとする。
 その中で台頭してきたのが、俺らのような犯罪まがいのことも行うような徒党だ。血を血で洗うような抗争が続き、それが当たり前のようになっていた。
 だからか、彼女の不思議そうな表情を見て、ほぞを噛んだ。
 決行は今夜。そう決められた復讐は、組の先代の弔いだった。俺は魁を任されていた。
 今夜は血の雨をふらしてやろうぜ。そう新組長がかけた言葉は、組の者に火を付けた。――俺をのぞいて。
 嫌な予感がした。何となくだが。それは消えることなく、俺の心を蝕む。だからこそ、目の前の少女に苛立ちを覚えた。
「雨は恵み。恵みの雨」
 少女が小さく言った。傘の柄を掌でもてあそんでいる。詩のように、続ける。
「血の雨は、飢え。連鎖して、とどまることの知らない飢えの雨」
 ほらもうすぐ降るよ、と空を見上げた。それに従うように、顔を上げる。
「……降らねぇよ」
 からっと晴れた雲ひとつない空、というのはよく言ったものだ。文字通りの空があった。
「降るの」
 彼女は唇をかんだ。ひかないらしい。
「ああ、降る降る。そう言えば、いいんだろ」
 降参したように、煙草をくわえたまま、両手をあげると嬉しそうに彼女が言った。
「雨は降るよ」
 そのまま少女はきびすを返して、遠ざかる。俺の目に、黄色い傘が焼きついた。それを見ながら、一服と吸い込むと、煙を吐き出した。一瞬白く見えたそれはすぐさま空中に霧散する。
「……雨、か」
 俺が感じた嫌な予感はそれだったような気がしてならなかった。そのまま俺は立ち上がる。
「さぁて、どうするかな」
 雨が降るなら作戦を変更しないと、と冗談めかして呟いた独り言は、やけに真実味を帯びて耳に帰ってきた。


SECTION 2
 屋上は照り返しがきつかった。白くぼやけた向こうに、畑がある。母の好きな野菜をプランターで育てているのだ。ぼくは一日に一度、それを世話しに屋上に上がってくる。夜の仕事はある。だからそのために昼は寝ておくのが普通だ。でも、これを欠かすことは無かった。今日も同じように、階段を上ってやってきたのだが、その畑の横に人が立っているのを見て、足を止めた。
 その人は少女だった。結ぶことさえしていないストレートの髪の先が腰辺りで揺れている。背中には暗い赤のランドセルを背負っていて、それが小学生であるのを教えてくれた。恐らく学校指定の雨が降る気配すらないのに、黄色い傘をさしている。そのせいで表情は伺えない。
 ぼくは恐る恐るその辺りへと近づこうとする。すると彼女は気付いてこちらを見た。
「……あなたがこの植物を育てているの?」
「え、あ――」
 はいともいいえとも言う前に、慌ててぼくは畑に近寄った。そこに植わっていた植物は、しおれていたのだ。
「み、水っ」
 慌てて胸から取り出した飲料水のボトルのふたを開ける。それを傾けようとする手を掴まれた。傘の影がぼくの顔にかかる。やっと見えた表情は、悲しそうにゆがんでいた。
「……勿体無いわ」
「――もったいない、だって?」
 水を持ったまま、彼女に喰いかかる。
「この植物は、母に食べさせたいんだ。病気の進行を遅らせるのに」
 遅らせるのに必要なんだ、という続きは出なかった。母の病気は、大掛かりな手術をしないことには、良くならない。もし手術をしても死ぬまで付き合わなければいけない、そんな病気だった。入院先の先生に言われ、この野菜を育てている。ずっとそれを信じてやってきた。でも、口に出しかけると、それがとてもうそ臭く感じた。
「口に出しても、大丈夫よ?」
 信じていればそれは真実に聞こえるはず、と傘の少女が言う。ぼくは手を払って、うしろを向く。
 そうかもしれない。でも、ぼくは自分の言葉がうそ臭く感じたんだ。
「……君は何か信じているの?」
 聞いてみると、彼女は嬉しそうに答える。
「雨が降ることを」
 思わず笑いがもれた。このヒテルマで雨!? だが、雨が降ると信じている証のように、ぼくの目に黄色い傘が入ってきた。
「……本当に?」
「本当に、降るよ。今から」
 だから水は勿体無いから、と彼女が手にしたままの水にふたをした。
「じゃあ、もう私はもう行くから」
 ぼくを追い抜かして、彼女は屋上の扉を開けた。ぼくは水のボトルをじっと見つめた。本当に、雨が降るのだろうか。
 そのまま動けずにいると、ぽたと音がした。
「…………本当に?」
 雨粒が落ちてくる。次から次へと。
 彼女が言ったように、雨が降った。なら、信じていいんだろうか。
 ただ空を見上げて、ぼくは立ったまま雨を浴びていた。


SECTION 3
 男の足にまとわりつく。みっともないかもしれない、でもそうせずにはいられなかった。
 この男のために、あたしは働き続けた。このヒテルマで。なのに、この男はあたしを捨てるのだ。ホステスにまでなって、あたしが築いたものはなんだったのか。
 手の甲を踏んで去っていく男の背中をにらみつけた。こちらを振り向かず、その背中は遠ざかっていく。きらめくネオンが夜空の星代わりとなって、あたしの目に飛び込んでいく。
「……大丈夫ですか?」
 いきなり視界に入ってきた掌。細く白い掌をじっと見つめた。いま、あたしに声をかけたの? 男とあたししかいなかった世界に、いきなり入ってきた掌に戸惑ってしまう。
「大丈夫よ」
 手をとらず、立ち上がる。ひざ上の短いタイトスカートを叩いて、埃をはたく。そうしてみた掌の持ち主は、少女だった。中学生だ。紺色でセーラー襟のワンピースを着ている。あるお嬢様学校の制服。あたしとはえんもゆかりもない衣装。いや、この街自体と。
 ここはヒテルマ。昼は水をはさんで抗争する柄の悪い集団があちこちにしのび、夜は金持ちが妖艶な男女を相手に金を振舞う街。滅多に雨が降らず、皆が水を求めている街。
「本当に、大丈夫ですか?」
「大丈夫だってばっ!」
 いらいらとして少女の言葉に返す。ふと、黄色いものが目に入った。……傘?
「なんで、傘なんて差してるのよ」
 雨なんて、と言うと、彼女はにっこり笑った。
「だって、雨が降りますもの」
 そういってから、近くの縁石に腰掛けて、となりにあたしを呼ぶ。しぶしぶあたしは彼女の左に座った。彼女は傘をちょっと右に傾ける。あたしに当たらないよう、配慮したのだろう。そんな優しさを持ってる人も、この街にはいない。
「雨はいいですよね」
 笑いながらそう言う少女は嬉しそうだ。しかし、あたしは呆れ顔で言う。
「いやよ、雨なんて。ムシムシするし、髪の毛はまとまらないし、化粧のノリも悪くなるし」
「でも、凝りを流しますよ」
 意味が分からなくて、顔をしかめると伝わったらしい。
「街にたまった汚れは端々に固まっています。それを雨が流します。そうしてまた綺麗にして、一から始まるのですよ」
 だからなんだ、といらつく。あたしも昔の男となったあの人を流せ、ってか。
「心も一緒です。定期的に綺麗にしないと、こごってだめになりますよ」
「どうやって、雨を心に降らせるのよ」
 彼女はまたも、笑った。
「泣く、んですよ」
「……あたし、だめなのよ」
 泣けないの、と呟いた。あの男も、その前の男も。一生懸命頑張って引きとめようとしたけど、引き止められなかった。でも、出たのは悲しみではなく、憎しみの呪いの言葉。
 人が見てるから。この街で生きるなら、常に人の目があることを気にかけてなければいけない。
 伝わったのだろうか。彼女は嬉しそうに傘を揺らす。
「じゃあ、雨の日なら泣けるでしょう?」
「どうして?」
「――雨に混じっていくから」
 涙を流してるなんて分からないですよ、と言う彼女の顔を見つめた。
「…………そうね」
 じゃあ失礼します、と礼儀正しく頭を下げて少女は立ち上がる。あたしはその姿を見つめた、彼女も男と同じように去っていく。でもあたしの目には、彼女の傘の柔らかな色が入った。
 それが去っていくと、待っていたかのように雨が降り出した。慌てて道を歩いていた人たちは、屋根を求めて走り出す。その中で、あたしはふらふらと道の真ん中に出て空を見上げた。雨粒が顔に当たる。
 そのなかで、一筋瞳から流れたしずくがあったのを、あたし以外は知らないのだろう。


 ただいま、という声と共に、私は玄関へと向かった。彼女は黄色い傘を傘立てにさして、靴を脱いでいた。
「おかりなさい、お嬢様」
 お仕事はいかがでしたか、と聞くと、上手くいきましたと返ってきた。
「いい人に出会えました。あの街には、本当にいい人がいます」
 笑みを浮かべてから、暗い顔へと変化した。
「……でも、本当にその人たちに恵みの雨をさしあげることはできているのでしょうか」
「大丈夫ですよ」
 雨はいつも恵みなのですから、と私は笑ってお嬢様を部屋へと上げた。

SECTION END
 バーで酒を飲んでいると、弟分の青年が顔をだした。
「あれ兄貴、またそんな安いの飲んでるんですか?」
「うるせぇな……俺はこの酒が好きなんだよ」
 しかしお前なんで濡れてんだ、と言いながら、彼のコートを叩いた。
「いや、雨が降ってきたんですよ。ヒテルマなのに!!」
 どういうことですか、と言われ、またあいつが現れたんじゃねぇの返す。
「えー、兄貴信じてるんですか。あの噂」
 雨の降る前、傘を差した少女が現れて雨を予告する、と。
「まあな」
 あの女は今日も誰かのところに現れたんだろう。十五年前に現れた少女は、自分に雨を予告した。そのために計画変更を訴えたが、逆に計画からはずされてしまった。
 その結果、組の中で自分だけが生き残った。相討ちで向こうの組も、全滅したと言う。
 確かにあの雨は、自分の命を恵んでくれたのだ、と思った。
「じゃあ、行くか」
 空になったグラスを置いて、席を立った。
「雨やむまで待ちましょうよ〜」
「俺、傘持ってるから」
 入ってけ、と言って折りたたみの傘を広げた。そして、外へ出る。歩いていく途中、ある店の前を通った。
 その店には、一人の青年が花束を持って、頭を下げている。
「オーナーには本当にお世話になりました」
「本当に行くのか?」
「ナンバーワンホストが勿体無いな」
 微笑むオーナーの後ろから、口々に同僚のホストたちが言う。それにいいんだ、と返した。
「ぼくがもともとここでお世話になっていたのは、母のためですから」
 十年前彼の前に現れた少女が予告した雨は、彼自身が希望を保たせてくれた。そうして、この日を迎えられた。母が病気から程ほどに回復し、自宅療養が出来るまでになったのだ。
「これからどうするんだい?」
 オーナーが聞く。
「母の実家の田舎に行って、畑を作ろうって思ってます」
 それはいいかもね、と言われ、はいと笑う。
 そうしてもう一度頭を下げた。
「ありがとうございました」
 深く深く下げた背中の向こう、二人の少女が歩いていく。
 姦しいの言葉どおりに、高い声が響く。
「あーあ、雨か」
「ねぇ、どうしてママは雨の日休みにするのかしらね?」
「なんかまだクラブのママになる前のホステス時代に……たしか五年前。そう五年前にある女の子から言われたみたいよ? 雨の日は、吐き出しなさいって」
「吐き出す? なにそれ、汚い」
 くすっと笑った一人に、相手はそうじゃないってとさめたように返す。
「お客様の悩みとか鬱屈とか私らは相手することで貰ってるでしょ? それを流して綺麗にしてしまう日なんだって」
「どうして、それが雨の日?」
「さあ?」
 首をかしげた。まあいいかと言いながら、また違う話題へと移りながら、おしゃべりは続いていく。

 そうやって、五年に一度の雨の日は過ぎていく。


 雨の降る日を読み、それを告げる者がいる。これはそんな一人の少女の小さな物語である。

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