***そらをみる人魚姫***
わたしたち。
そう言ったのを、彼女はちゃんと聞き取っただろうか。
私は海底から彼女を探して見上げる。女王となった当人は、踊り泳ぐ人魚たちより高いところにある珊瑚の出っ張りに横たわり、そこへ近寄る臣民に挨拶をしていた。頭に戴いた冠が水の上から入ってきている光に反射してきらめいた。
かつて海草の庭と呼ばれ苔生していたここも、綺麗に整えられ白い岩棚をさらしている。そのあちこちでこの戴冠式の祝いの宴に呼ばれた者たちが横たわり、談話に講じていた。白い岩棚が段々と急勾配になり、そうして珊瑚に装飾を任せる。友人であった彼女はそこにいた。海底にいる私と水面近くにいる彼女。この十年、それだけでここまで遠くなってしまったのに、少し寂しさを覚える。
彼女がそらを見た後、海底で待っていた私はそれをそそのかしたとして捕らえられた。分かっていたことだけど、それでも罰として長い髪を際限なく切り取られた時には、胸に冷たいものがよぎった。そうして、女王と会うこと能わずと命じられ、軟禁された。今思うと殺されずに済んだのが、奇跡だった。
あれから伸びて髪は肩あたりまでにはなったけれど、成人ならば尾にかかるほどの髪を持つ普通の人魚と比べ、相変わらず罪人としての容貌だ。ちらちらと飛んでくる視線が息苦しい。手入れされた庭を通り抜けて、外へ出た。
今日は祝いの席だから、外には誰もいない。視線の綱から開放されたように、泳ぎ回ってみた。
段々心が静まっていく。嫌な思いも消え去ろうとしていた。
なのに。
「いい身分だな」
後ろから声をかけられた。頭を下に向けて、相手の顔を見た。
「……兄上」
にやにやといやらしい笑みを浮かべた彼をねめつける。けれどそれは通じないようだ。諦めて離れていこうとするが、それも叶わない。
「お前が導いた通り、あの姫が女王になったぞ。これでまた俺等の好き放題ができるな」
「彼女は言ったわよ。“これからわたしがあなたの言うように動くとは限らないわよ?”って」
途端、嘲笑に似た笑いが漏れてきた。
「そんなの、口だけさ」
兄上に言われたくない、と思う。苦々しい気持ちが上がってきた。兄上こそ、役目が果たせなかった“口だけ”の者のくせに。
私達一族は、代々外交を担ってきた貴族だったらしい。そうしてその綱を使って、裏でも手広く商売をして儲けていたのだ。それが件の人魚姫の禁令でできなくなってしまった。細々と密貿易は続けていたようだが、それでもその時までのことを思えば、満足は出来なかった。それで彼らは考えた。代々の王子、姫に一族の者をつけて、そそのかすこと――禁令をとくように、と。
それはその栄華を知らぬ兄上や私の代まで続いた。兄上は女王の兄についていたが、弱腰の彼は拒否したようだ。
そうして何代も重ね、“わたしたち”は望んでいた。
世界が変わることを。
「でも、“私”が望んだのは違う……」
兄上は怪訝そうな顔をする。その顔に宣言するように言葉を叩きつけた。
「私が望んだのは、自由になることよ」
だから禁令から自由になったじゃないか、と応じる兄に重ねるように言う。
「禁令からも、一族での義務からも、よ」
ただ自由になりたかった。もう要らなかった、こんなくだらないことなんて。
私が望んだのは、全てのものからの自由だ。
「だから私は彼女の宰相にはならない。彼女を操ることなんて、しないわ」
無論、彼女が知らないこと――人間の存在など――たくさんある。それを教えるのはいいかもしれない。
でももう私は彼女を縛りたくない。
一族からの役目として私は彼女に禁令をとかせた。でも、もう彼女が言ったとおり私の動くとおりに動かなくていい。
それが私の望んだ自由だから。
「っ、お前みすみすあの栄華を手にするのを捨てるというのか!?」
「そうよ!」
だからもう要らない。何もかも、家族さえ。
私は手を伸ばした。そのまま兄の首を掴もうとする。
兄上は私が本気で向かってくるのを感じたように、身をよじって逃げようとする。それを深追いして、両の手を伸ばす。
けれど手が届く前に、何かが頬の辺りを横切った。
振り返るが何も見えない。兄の方へと視線を戻すと、肩に何かが刺さっており血が筋を描いて水中を舞っていた。暗い水の中で、それはなおさら黒く見えた。澱みが解けていくような、そんな感覚を受ける。
「その栄華を捨てるも何も、ないのだから仕方がないわね」
聞こえた声に再び振り返る。今度は視界の中に、人影を捕らえた。
あの珊瑚に横たわっていた彼女を。
「あなたたち一族が犯した罪は、今明らかになったわ。他の者も今頃捕らえられているでしょう」
罪、という言葉に兄がびくりと肩を揺らすのが分かった。それを一瞥もせず、彼女はこちらを見た。
「……ねぇ、あなたは先王が死んだときのことを知っているかしら?」
彼女が私に尋ねる。首を横に振った。先王――彼女の父親が死んだとき、私は遠く離れた岩の間に軟禁され、何も聞かされなかった。ただそのおかげで、そこから出られたのは知っている。
「死因は病死とされ誰もそれを疑わなかったけど……毒だったわ」
兄が肩を揺らした理由が分かった。兄が、私の一族が、先王を――。
「その毒は水の中では手に入らないものだった。それからあなたたち一族が密貿易をして、未だ地上と繋がっていることが知れたわ」
俺らがあいつを殺したからお前は今女王として立っているんだろうが、と兄が吐き捨てた。それを断つように大声が響いた。
「わたしはそれをいつ望んだか!? わたしはできるなら先王にお見せしたかった。“そら”がどういうものなのかを!!」
その気持ちをつぶしただけであろう、と叫びにも似た大声が続いた。
「先王は亡くなる最後まで、わたしに反対していた。それと裏腹に応援もしてくれていた。わたしはまず民に報いなければならない。けれど、次に先王に、父上に報いたかった。彼は私にとっての“敵”を演じて下さったのだから!」
だけどそれももう叶わない、その気持ちをつぶしたのはお前たちだ、と最後は搾り出すように低く出された声が響く。兄はそれに対して、もう何も言えなかった。
兄は彼女の後からついてきていた番人たちに手と尾を縛られ、肩に刺さった何かを抜かれた。それを女王が受け取ると、暴れる兄を数人がかりでどこかへ運んでいく。
それを見送ってから、彼女は再び私の方を向いた。
「この十年、色々なことが分かったわ」
無論人間のことも、と言う。
「気ままで残酷で移ろいやすい。欲望にまみれた彼らは、果てしなくわたしたちより強い」
このような武器も持っている、と彼女は手にした何かをもてあそんだ。
「だから皆にそらを見せるなら、わたしは人間から臣民を守らなくてはならない。そして、また同じ轍は踏ませてはいけない」
彼女は水面を指差した。ここからでは分からないが、そこには鯨骨で作られた刃物でしか切れない海藻の網がある。
あれはそのままにする、と言った。番人の制度も廃止しないそうだ。
「当面は私が破ったあそこをもう少し広げて、誰がそこから出たか記録をつけるようにするわ。長いことかかるでしょうが、そのうち全面開放にしたいのだけど」
まだ対策が追いつかなくてね、と笑う。そんな彼女に釣られて自然と昔のように声をかけていた。
「よく人間の存在なんて気付いたわね」
「あら、簡単だわ。件の人魚姫はどうしてああいう事件を起こしたのか、考えてみればよかったのよ」
誰も考えなかっただけだわ、と続けた彼女の表情を見て、私は笑みを浮かべた。
彼女は大丈夫だ。口だけじゃない。私の言うように動く操り人形のような存在ではないのだ。
「今から、人間の国の王に謁見しにいくところよ。あなたもついてきて」
事もなげに言われた言葉に、目を見開いた。私をついていかせる?
その表情を見たのか、笑みを浮かべて私の手を引っ張った。
「あなたが勧めてくれたから、今のわたしがあることを忘れないで。わたしが個人的にね、一番目にそらを見せたかったのは先王。二番目は――」
にっこり笑ってから、あなたよ、と言われた。
「人間の国の王と会う前に少し時間があるの。いきましょう」
引っ張られるままに泳ぎついていく。
気持ちが高鳴る。
私が求めた自由の象徴が、そこにある。
水を掻く尾をはやく動かす。そうすれば早く上がっていける。
私は手を伸ばした。
先に網の穴を抜けた彼女が待っている。
速度を緩めて、網の前で止まった。
思わず笑みを浮かべた。この贈り物は向こうで待つ彼女がくれたものだ。
この向こうに、自由がある。
そう胸に温かく響く思いをもって、網を抜けた。
そうして人魚は空を見る。
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