***そらをみた人魚姫***
地上の王子様に恋した人魚姫は、陸へと上がった。けれど、その恋は実らず海の泡となった。
海の上で伝わる物語は、そこで終わる。けれど、海の下では続きがあった。
末娘の死を嘆き悲しんだ人魚の王は、すべての人魚に対して海の上へと出ることを禁じたという続きが。
あれから、長い年月が経った。しかしこの禁令は未だ残っている――。
***
はるか上の方から、柔らかな光が入って、きらめきを海底の砂へ与えている。そのきらめきの元を追って、見上げた。だんだんと上方が明るくなってきているのが分かった。ゆっくりと手を伸ばしながら泳ぎ上って行く。周りが明るくなっていくのを感じる。
もう少し、もう少しと光の元を追いかけるように、上へ上へと向かう。幻想的なその光を一心に見つめながら。
水面が光を溶かして広がるように淡く揺れるのが、視界に映る。
突然だった。首の辺りに、衝撃を受けた。何かと思えば、それは槍だった。かの禁令を守らせるための番兵が、打ち下ろしたものだった。
夢心地でふわふわと浮かんだ心は、すぐに現実に戻らされた。わたしは思わず顔をしかめた。けれど、番兵はその槍をぐっと押しつけてから、胸元へと引き寄せた。
「いくら、姫様でもこの先は行ってはならない領域です。お戻りください」
動きを止めてその番兵の顔を見つめる。それを了承の意と取ったのか、番兵は少し距離をとって、敬意を示してきた。
それでも、その番兵の言葉を右の耳から左の耳へ抜けさせる。見上げると、もう少しで水面に届く距離なのが分かった。あと三掻き、いや二掻き。それで水面の向こうに何があるのか、分かるのに。
また少し上ってしまったのか、番兵が手首を掴んだ。振り払おうとするけれど、叶わない。
「姫様」
冷たい声が聞こえる。その声で、お父様である王に報告するという意図が知れた。興がさめてしまう。
「……分かったわ」
絞り出した声とともに、眼を閉じた。もう上を見てはならない。
***
ゆらゆらと海の底を泳ぐ。海草の庭を抜けたり、苔生した岩椅子に横たわったりして遊んでみる。けれど、それも飽きてしまって、ため息をついてくるりと回った。
「暇そうね」
隣を泳ぐ友人が声をかけてきた。その言葉に、沈黙で返す。不機嫌そうな雰囲気が伝わったのか、彼女が面白そうに笑い声を上げた。
「そういえば、あなたまた水面より上に出ようとしたようね」
それを阻止されて不機嫌なんでしょう、と楽しそうだ。何回目なのよ、禁令は知ってるはずでしょうと続ける。その言葉の間にも、ぽろぽろと笑い声を入れていく。
「……笑わないでよ、ひどいわ」
ゆっくりと開いた口からは、思いのほか沈んだ声音が出て行った。そのことに、また気持ちは沈んでいく。
分かっている。水の上に出ることが禁じられているのを。それでも、あの光の元が何か、水面の向こうには何があるのか。それが知りたいだけ。
すでに水の上を知る人魚は全て死んだ。この海に残っているのは、昔の王が残した禁令に何も分からずに従う者ばかり。
深くため息をつくわたしのそばで、友人は笑みを浮かべながら言葉を紡いだ。
「……それにあなたはまだ十四でしょ。禁令がなくとも、水面に上がってはならない年齢のはずよ」
一つ上の友人の言葉に、猛烈に反発する。
「もうわたしは今日で十五よ! 禁令がなければ、水の上へと上れる年齢よ!」
十五は、大人と認められる年齢。その証として、水の上が許されていたのだ。
王子に恋した人魚姫がなんだというの、と呟いた。友人はわたしの前へと泳ぎ出て動きを止めさせる。
「そうだったわ、あなたももう十五なのね」
笑みを浮かべていた友人の顔が真顔になる。つられて私も口元を引き締めた。
「じゃあ、水の上を見ればいいじゃないの」
***
身に帯びたのは、番人がつけているような貝殻の鎧ではなく、しゃこ貝や真珠の首飾りなど、十五の
大人となった時のためのものばかりだった。抵抗するためのものといえば、手にした鯨骨のナイフだけ。
しゃこ貝を挟んだひれが痛い。目をつぶってみるけれど、痛みが薄れるわけではない。そっとまぶたを開いて水面を見上げる。見えるはずもないけれど、そこには番人たちがいる。そうして彼らの上に海藻で結えられた細い、けれども強い網が延々と張り巡らされている。
あえて岩に囲われたところなどでなく、周りに何もないところを選んだ。ひとりひとりの番人の持ち場が比較的多い、と友人は言っていたから。その友人は海底近くでわたしの帰りを待つという。
悠長なものね、とひとりごちてみた。
海の中は、光がさしていない。こうやって互い違いに明るい光の海と暗い海とがやって来る。その暗さに紛れて、わたしは時折方向を変えながら、ゆっくり泳いでいる。
ちらりと番人の方を見た。彼らは昼より下の方にいる。水面の向こうへ出ようと思うと、番人のいる場所を通り過ぎてから、五掻きはしなければいけないだろう。そう目測してから、泳ぐ方向をわずかに上へ向けた。
番人たちはまだ気付いていない。ただ遊んでいるだけだと思っているらしい。でも、わたしがわたしであることを悟られれば、すぐさまやってくる。
音を立てないよう、水を揺らさないよう、静かに動き回りながら上っていく。番人がわたしを見ているのに気付くと、またもぐってみたりを繰り返す。それでも上へとのぼっていく。
すこしずつ、すこしずつ、上へ上へ。だけど確実にスピードを速めていく。しゃらしゃらと揺れる真珠の首飾りがほどなく揺れず胸に張り付くようになる。
脇目も振らないその泳ぎに、番人たちが気付いた。
お願い、逃がして、と心の中で願う。でもそれが叶わないと分かっていた。彼らが近づいてくる前に、上へと泳いでいく。
海藻の網がうっすらと見えてくる。同時に、背後にたくさんの揺れが伝わってきて、追って来るのが分かる。
だんだんその揺れが大きくなって、ひれに挟んだしゃこ貝がそのうちの一人につかまれた。激痛が走る。けれど、動かすのは止めない。
さらに鋭く痛みが増して、ひれが軽くなった。しゃこ貝が外れたのが分かった。意外に重かったのだろう、ひれは今まで以上に動いて、わたしを高みへと連れて行く。
もう一度、ひれがつかまれた。もう外れるものもない。人魚という荷を負って、それでも必死に動かした。
目の前には、網が迫っていた。右手に持っていた鯨骨のナイフの刃が上を向くよう、持ち替えた。伸ばした左手が海藻の網をつかむ。
右手のナイフで自分が抜けられるだけの隙間を切り裂く。そうしてその上へと躍り出た。
ひれを掴んでいた番人の手が離れた。網の隙間を抜けられなかったよう。
それから、 水面を見上げる。もう手の届くところに、それはあった。懸命に手を伸ばす。
突然だった。その指が水でないものに触れた。
そのまま大きな音とともに、上半身がその水でないものの中へ飛び出た。続いて下半身も。
けれどわたしはさらなる高みに目を奪われていた。
「……なにこれ」
真っ黒な面にきらきらと光る小さい粒。それは光を反射して光る砂粒とは何か違っている。
そう思ったところで、二度の大きな音とともに水の中へと叩きつけられた。そうして初めて分かった。
(あれが、水面の上……)
もう一度見ようと、顔を水面の上に浮かべる。首まで出すと、息苦しい。目の下まで水につけると、楽になる。それでも、何だか安定がない。そのまま身体半分を水につけるように横になると、なんとか安定した。身体の力を抜いた方がいい。
そうしてから、改めて見上げた。
海でいうなら水面だろう、真っ黒の面にたくさん広くきらきらと何かが輝き続けている。それは光を反射する海底のようだった。けれどそれは鋭い光だった。
まるで落ちてきそうな光。そして手の届きそうな光。さらさらと音を立てそうな、綺麗な光。
手を伸ばしてみたけれど、それは届かなかった。どれぐらい遠くにあるのだろう。
見回せば、その小さくたくさんある光の中に、丸いものが浮かんでいた。指でまるをつくったぐらいの大きさで、うすい黄だ。やさしい色をしている。そしてやさしい光だった。
何もかもを忘れてしまいそうな、景色。水面の上にはこんな世界が広がっていた。
わたしは、じっとその光たちを見つめていた。時折、手を伸ばして光を掴もうとしてみたりした。
しばらく経った頃だった。
その黒い面に淡い光がさしてきた。その光の元を求めてあごを上げると目線が下がった。遠くの水面からさしてきている。だんだんその黒い面も、青く淡くなってゆく。
その光に包まれて、さっきと違う丸いものが姿を現す。それ自体も淡く白く光っていた。というより、それが光を発しているんだろう。
黒い部分がだんだん狭まっていく。鋭い光もなくなっていく。振り返ってみれば、やさしく光る丸いものはすでになかった。
姿を現し始めていたものに視線を戻す。上へ上へと昇っていくそれは、だんだん光を強めていく。色も心なしか強くなっていくようだった。黒いところはすべて、淡い青へと変化していく。そうして海の中にも光がさしてきていた。
(これが光の源……)
大きいそれはだんだん小さくなっていく。それはだんだん自分から遠ざかっているということなのだろう。慌てて手を伸ばしてみたけど、届きはしなかった。
すべてが青へと変化した頃、わたしは一度水の中へともぐった。すると、わたしが抜けた穴から少年の人魚が抜けてくるのが分かった。番人のがっしりとした身体はあの穴を抜けられなかったのだろう。網を断ち切れるのは、わたしが手にしている鯨骨のナイフだけ。国庫にあった珍しいナイフなので、ふたつとないらしい。だからこそ、わたしと同じ年で、背格好も似ているお父様の小間使いの少年が呼ばれたのだろう。網の向こうから非難めいた視線がいくつも飛んできている。
少年は青白い顔を見せて、わたしを呼んだ。その声がいつも以上に感じ取った。それだけで分かった。
「お父様が――王が呼んでいるのね」
「はっはい……」
そのおびえから、自分の娘が禁令を破ったのを激しく怒っているのが知れた。
「こちらに向かおうとするのを、必死で周りがとめております……」
早くと言外に急かす番人の手首を掴んで、上へと引き上げる。彼を水の外へと引っ張りあげた。
しかし苦しそうにしているのを見て、慌てて耳の下にあるえらが水につかるように引っ張る。そうしてあごを掴んで上を向けた。
「ねぇ、あなたはこの景色を見て、どう思う?」
「っ、これは――」
言葉にならない吐息が、その驚きを語る。そしてその見開いた表情に、感嘆がよぎるのを見た。それを確認してから、彼を解放する。
水の中にもぐってから少年を見た。
「どうして、王はこれを禁じておられるのかしらね」
「あっ、そっそれは!」
言ってはいけない王への批判を口にすると、慌てたように手をこちらに伸ばした。
それを視線の端に捕らえてから、網の穴のほうへと泳ぎだした。お父様――王のもとへとおもむくために。
***
王の普段の居である海草の庭に飛び込む。すぐさま、掴みかかろうとして王が手を伸ばす。寸でのところで、侍従がそれを押しとどめた。
しかし一層不機嫌になった王が、今度は大声を吐き出す。
「お前、何を考えて禁令を破った!?」
じっと王の顔を見た。赤く怒りに染まっている。その視線をはずさず、口を開いた。
「水の上に興味があったからです」
「興味、などというくだらない理由で、そうしたというのか!?」
お前みたいな者ばかりが増えたら法令の意味がなくなるんだぞ、と続く。皆の模範であるべき王族の娘が禁令を破るだと、先祖に顔向けができぬ、とも言う。
「どうしてそうお前はどうしようもない。禁令を破ることでどれだけ……」
「もう、水の上は望みません」
王の言葉をぶった切って吐き出した声は、遠くまで波紋となっていった。王も押し黙る。
「わたしは、もう水の上を求めません。わたしはもう禁令を破りません」
じっと王の目を見て、宣言する。
言葉はいつもと同じかもしれない。でも表情が違うと分かったのか、訝しげに聞いてくる。ゆっくりと静かな声だった。
「……何か、企んでいるのか」
いいえ、とひとつ嘘をついた。
「お前の思っていた世界と違ったのか」
幻滅しました、ともう一度嘘をついた。先ほど呼びにきた小間使いが、分からないという風に眉を寄せる。
心の中には、さっきの彼の感嘆の表情が浮かんでいだ。
「……これから、勉学の時間であったのを思い出しました。失礼してよろしかったでしょうか」
侍従の手を振り解いて、王がねめつけながら言う。
「今の言葉を決して忘れるな。もし忘れたら、そのときは――」
「分かっております」
身体を起こして、頭を下げる。尾を上へと上げて一度大きく振り下ろす――最敬意を示す礼をした。
「今回の温情に、感謝します。失礼します」
向きを変え、外へと泳ぎ始めた。そして、思い描く未来へと。
***
***
頭の上に、貝殻を組み合わせて作られた髪飾りをかざる。首には真珠の首飾りが何連にもつらなり、尾には巨大なしゃこ貝が挟み込まれていた。あの時と違い、痛みはそれほどない。鏡を見つめた。
あれから十年。長くも短いような時が過ぎていった。
ずっとずっと、まなこの裏には、あの景色が焼き付いている。
(やっと、ここまできた……)
もう一度その景色を思い出して、心のなかでつぶやいた。
「すみません、そろそろよろしいですか?」
その声に振り向いた。そこにはあの時自分を迎えに来た小間使いの少年が顔を覗かせていた。そんな彼も青年になっている。彼の声に導かれるように部屋を出て、長い廊下を泳いでいく。
廊下の終わりには、明るい光に満たされた広場があった。一つ下の段に、大勢の人魚がひしめき合っている。
そして自分がいる壇の向こう側に、友人がいた。貝殻でできた冠を、手にしている。
身体を起こして、頭を下げた。尾が上がる。
小声の言葉が、頭上から降ってきた。
「ひさしぶりね」
十年前、“そら”をみるよう薦めた彼女を見上げると、うっすらと笑っていた。あの時海底で別れてから会えず、久しぶりにみる友人の顔だった。だから、そうねとこちらも小声で応えた。そして、続ける。
「会って、一つ聞きたいことがあったの」
なぁに? とたずねられた。
「あのとき、あなたが“そら”をみるよう、わたしの背中を押したのは、どうして?」
その途端、彼女は周りに分からないよう吹き出した。たぶん、なんだそんなことと思っている。端の上がった口の隙間から言葉が漏れ出る。
「要らないからよ」
真顔に戻ってもう一度告げる。
「昔になんて、縛られ続ける王はもう要らないからよ。あの十年前、あなたを前王にぶつけることで、わたしたちは期待した。王が変わることを、次代の王が変わることを」
あなたはわたしの思った通りに動いてくれた、と言う。
「あれから十年、あなたは周囲の反対を押し切って、王となった」
「……これからわたしがあなたの言うように動くとは限らないわよ?」
十年前“そら”を見てから、生き方が変わった。それまでおざなりにしてきた勉学を一生懸命行った。女でありながらも、男であるように振る舞った。後継と認められるよう、がんばった。わたしの周りにいたのは少女たちでなくなり、代わりに重臣や勉学の師となった。己の楽しみを捨てた。
すべてはこの時のため。
「じゃあ、わたしからもひとつきかせて?」
その言葉で、彼女の方を向く。
「あの禁令はどうするの?」
「決まってるじゃない」
そのために王となるのだ。
言わずと知れたその返事で、友人は笑みを浮かべてから、彼女の頭に冠をそっとのせた。そして、ゆっくり額ずくぐらい頭をさげ、尾を上げる。そうして一度大きく振り下ろした。
「われら海の民、なんじを王としてお迎えする」
***
気が遠くなるほどの年月をこえ、再び水の上へと目を向けた人魚たちは、各々そらの素晴らしさに驚き、そして称えた。また、その禁令を解いた女王を称えた。
そしていつしか、そらを人魚たちに贈った女王はこう呼ばれるようになった。
そらをみた人魚姫、と。
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