あの日、目の前は白の世界だった。絶えず、雪が吹き荒れていた。
それに身を潜めるように、白い羽毛をまとった鳥が母鳥とともに枯木の影にいた。少しの身じろぎもせず。ただ、その寒さに耐えるように。
突然、母鳥が高く鳴いた。鳥は顔をあげた。
(……黒?)
何もかも白いその中に黒い影がみえる。その影は、近づいてくるにつれ、黒髪の男だと分かった。母鳥はこっちだとでも言うように鳴く。こちらへ向かってきた彼は、鳥たちの前で歩みを止めた。
「林、もう限界だ」
その男の言葉に、母鳥はしばらくは男の顔を見つめていたが、諦めの吐息を混ぜて鳴く。途端、突風が起きた。鳥は思わず眼を閉じた。
その風は、すぐ去っていった。一息ついて、再びひらいた鳥の瞳には、母鳥の姿はなかった。かわりにすらりとした女が立っている。
「本当にもう、行かなければならないのかしら?」
返事はなかった。けれど、悲しそうに細められた目が、答えになっていた。それにため息をついて、女は鳥の方を向く。
「私の娘、驚いたでしょう?」
娘と呼ばれたことで、鳥はこの女が母なのだと感じた。うなずくと、微笑んで鳥の頭をなぜた。
「私はもう、行かなくてはいけないの。元気でね」
涙を落とす。それを鳥は悲しそうに眺める。
そのうち、彼女は鳥を抱きしめた。そっと瞳を閉じる。
どうして母が人の形になったのか、全然分からなかった。
けれどなにか悲しいことがあることだけは分かった。
「さよなら」
そっと耳元で告げられる別れ。うなずいて、返す。
(さよなら、サヨナラ、さよなら……)
「覚えていて。『歯車の向きを変えることはできない』。だから、また私たちは会えるから」
そっと手が離れていく。名残惜しげな声をあげた。
ふたたび突風がふいた。鳥は目を開いていたかった。けれど、それは無理だった。
閉じてしまった目をひらいた。男女の姿はもうない。けれど鳥はいつまでもただ残された白い世界を眺めていた。
幾度か夏が来て、そして冬が来た。
今も目の前は白い世界だ。母親が消えたあの日と同じ。
そう思った時だった。
瞳に黒い影がうつる。
(あのときと同じ!)
かけだそうとする。けれど、雪に足をとられて、思うようにいかない。黒い影はこちらに近づいてきていた。
だから、気付いた。あの時と同じ男でない、と。揺れる髪は、木の幹の色だった。
けれど、彼は言ったのだ。
「お前は母親に会いたいか?」
出来る限り大きく、うなずいた。彼は嬉しそうに笑った。
「――“人の形をとらせよ”」
突風が吹き荒れた。何かに引っ張られるような痛みを全身に感じる。
風がおさまった。今度は面白そうな笑みを浮かべている男を不思議がって見る。そして、身体を見下ろした。羽毛も何もない、つるりとした肌が見えた。あの時の母と同じ身体だった。
「どうだ、人間は。あの姿より動きやすいはずだ」
そう言われて、立とうとするが、よろめいてしまう。そのまま、雪に手をついた。とても冷たい。あわてて、手を引っ込めた。
「そうだ。お前、自分の名を知っているか?」
「……」
ふるふると首を横に振った。すると、彼が口を開く。
「お前につけられた名は、水晶という意味の名だ」
ぱきりと近くの木の枝を折った。その棒切れで土の上に"晶"という文字を書く。
それを見つめた。けれどどれだけ見ても、どういう名なのか分からない。瞳を伏せると睫がまぶたに影を落とした。
「……ナンテ読むのデスカ」
言葉を紡ごうとして口を動かす。危うげだが、言葉は出た。彼は微笑んで教えてくれた。
「読みは、"セイ"」
「……"セイ"……」
反芻してみる。
自分の名前。それが嬉しくて、笑みを浮かべる。彼女は何度も何度も口からその言葉を紡ぎだした。
彼はその様子をしばらく見ていたが、彼女……晶の手を掴んだ。引っ張られるままに進みながら、その背中に問いかけた。
「……ワタシはお母さんに会いにいく。どこへデスカ?」
「――遠いところだ」
ここと別れる。そのことが分かった。
でもお母さんと会うために、行くのだ。
ずっとここにいた。でも、お母さんがいないのなら、ここにいなくてもいい。
お母さんのところへ行きたい。
きゅっと唇をかみしめ、空を見上げた。
その姿を見て、男は独り言を呟いた。
「さて、運命の“はじまり”だ」
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