ワーチは、ふと空を見上げた。
うすく雲がかかった空はいつも通りだ。
ただなんとなく、嫌な感じを覚えた。
「フーマ、何かあったのかしら」
『分かりません。家に戻ってみますか?』
額の水晶に住む精霊に話しかけ、その言葉にうなずく。
手に取っていた林檎の代金を店主に払い、駆け出した。
嫌な感じは、まだ続いていた。むしろ家に近づくにつれ、強くなっている。思わず、歩を早めた。
トーコ国に住み始めてから、数年経つ。その間、身体の弱い母は大半を寝床の上で過ごしているが、それでも調子は良い方だった。
(なのに、この不安は何なの……?)
お母さんが危ないという、嫌な感じは消えていかない。
「お母さんっ!」
家の扉を乱暴に開け放す。大きな音が響いた。
廊下を駆け、母の部屋に飛び込んだ。
「お母さん、大丈夫!?」
足が止まった。
「……お母さん」
彼女の息は、荒かった。今までにないほどに、苦しそうに顔を歪めている。
「何か、薬を……」
きびすを返すと、寝床から伸びた手に、腕をつかまれた。
「ワー……チ」
「何、お母さん? どうして欲しい?」
「ありがと……う。もうい……いから、そばに……いて」
その言葉に腕をつかまれていた手を握り、寝床のそばにひざまづいた。
「もう……この……指輪、あな……たにあげる……わね」
緑の石の指輪が手に落とされた。母の顔を見る。
「これは?」
「――あなたの……まもり、と……なるもの」
彼女は微笑んだ。精一杯明るく微笑んだ。
「ワーチ……、生きて……」
あいている手が、こちらに伸ばされた。その手は額の石をかすり、突然落ちた。唇は半開きになっていた。
「お母さん?」
ワーチは呼びかけた。何度も何度も。
返事は、返ってこない。
「わたしを――」
置いていくの。
それは言葉にならなかった。その代わり、涙が落ちた。手のなかで、彼女の手が冷たくなっていくのを感じていた。それでも、それを放すことはできなかった。
「っ……」
涙は頬を伝っていった。
外は暗くなっていた。
ぼんやりと窓の外を眺めていた。涙も枯れて、動く気力もない間に、精霊たちが埋葬を済ませてくれた。
ワーチは悲しそうに笑った。何かをしようと思えない。このまま朽ちていきたい。そう思った。
椅子に背を預け、目を閉じた。
「お嬢さん、サーチェスは?」
いきなり話かけられ、目を開け立ち上がった。窓の縁に人が座っているのが目に入った。
月明かりを背にしているので、顔は良く見えない。けれど、耳の先が尖っていることから森精人だろうと予想はついた。
「お嬢さん、サーチェスはいるかと聞いたんだけど?」
その言葉に彼女は、はっとする。瞳を伏せて、つぶやいた。
「サーチェス――お母さんはさっき亡くなったわ」
「そうか。じゃあ、君はどうするの?」
その言葉に、怪訝そうな顔を向けた。
「どういうこと?」
険を含んだ声音にも気を止めず、森精人(エルフ)の男は言う。
「だってさ、このまま君はこのトーコ国のなかで、虎人族に混じって過ごしていく訳?」
「それのどこか、悪いところがある?」
「あるよ」
きっぱりと言い切った。驚き呆れた表情を返した。
「ここはしょせん虎人族の国さ。君は、何の種族だ?」
「――夜晶人よ」
ため息をついた。男を睨む。
「ようするに、わたしは仲間はずれって言いたいんでしょう? どうせそれぐらい分かってるわよ。でも、どこにいったってもう、同じ種族の者には会えない。そのことだって、分かってるのよ!」
「そんなの、誰が決めたんだ?」
ずいっと近寄られた。思わず身をひく。
「君と同じ種族の者がもうこの世にはいないなんて、誰が決めたんだ?」
「――っ。だって、聞かないじゃない。以前の水晶狩りで、多くの夜晶人は殺されたんだもの!」
夜晶人が額に抱く水晶は高価なものらしく、数十年前に多くの夜晶人は殺され、水晶を奪われた。そのおかげで、同じ種族に会ったことはなかった。
けれど、くすりと笑われた。その笑いに、あざけりを感じた。
「だからって、証拠はどこにあるんだい? それとも、君が証明してくれるのかい?」
頭に血が上るのがわかった。言ってはいけない。そう感じたけれど、止められなかった。
「分かったわよ! わたしはこの国を出て、夜晶人を探しに行くわよ!」
「それでこそ、サーチェスの娘だ」
その言葉ではたと気付く。
「ねぇ、あなたとお母さんとの関係は?」
「それはまた次の機会に、ね」
窓から飛び降りる。
「え、ちょっと!?」
慌てて窓に近寄る。けれど、男は山羊に乗って、去っていってしまった。あとに残されたのは、暗闇と静寂だけだった。
少し呆然としていた。けれど、いつまでもそうしているわけにはいかない。料理場に立って野菜を刻む。窯に火を入れ、鍋に張った水を沸かす。
火の様子を見ながら、ワーチは口を開いた。
「ねぇ、フーマ」
『……何ですか?』
「あの森精人の言っていたこと、どう思う?」
彼はその言葉に否定を返してきた。
『あなたはここで暮らしていて良いんですよ。あの男の言うとおりにする必要はないんです』
彼の顔を見る。それから下唇を噛んで、下を向いた。
「でもね、本当のことだと思うの。どうあがいたって、ここでわたしは仲間はずれなの。絶対、淋しいって感じる時がくる。それなら」
言葉を切った。もう一度フーマの顔を見る。
「それなら、わたしあの人の言うとおり、旅に出ようと思うの。夜晶人を探しながら、色んな国を見て回ろうと思うの」
『でも、危険が……』
「危険は承知よ」
指にはめた緑色の石の指輪を見た。母の形見だ。
「だけどお母さんが守りをくれた。わたしは大丈夫よ」
ね? と、笑みを見せた。それにため息をつかれた。
『あなたがそう決意したなら、私は何も言いません』
「もちろん、付いてきてくれるわよね?」
彼はぽんとワーチの頭を叩いた。
『当たり前です』
その言葉を聞いて、ワーチはこぶしに力を入れた。
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