叶子(ユエズ)は父の部屋の扉を叩こうとして、その手をとめた。
 竪琴の調べが流れている。その楽曲には聞き覚えがあった。
(――“青鳥”か……)
 庭に目を向ければ、山茶花が花開いている。思わず叶子(ユエズ)は顔をしかめた。また、この季節がやってきた、と。
 ここは虎の姿をあわせもつ虎人(フーレン)族の国だ。トーコ国(ラウ・レギト)という。この国は今の族長に代替わりしてから、急成長したといえる。代替わりの前と後では、領土が二倍に増えているのだ。
 現族長である叶子(ユエズ)の父はその目覚しい働きから、やっかみ半分で“冷血”だの“仕事人”だの言われてきた。
 けれど、叶子(ユエズ)は知っている。父がこの季節にこの“青鳥”を奏で、母を忍ぶことを。
 今は亡き母の名は、青鳥。母は七年前、山茶花の咲くこの季節に、亡くなった。この七年間、父が母を忍ぶそのことは、変わらないことだった。
 この季節が来るたびに、叶子(ユエズ)はつらくなる。七年前何があったのか、知らないから。
 七年前より以前の記憶を失っている。ほとんどの人間がこのことを知らない。だから母親の命日の季節にも、平然としている叶子(ユエズ)をいぶかしそうに、見つめる者は少なくない。その視線がつらいのだ。どうすることもできないのに。
 はぁ、と大きなため息をもらす。意を決して、扉を叩いた。
 大きな音と共に、竪琴の調べが途切れた。慌てたような返事がある。
父上(チャーフー)、何を……?」
「お前がいきなり、来るからだ! 驚くだろうが」
 中に入れば、なんとなく事情は知れた。思いにふけっていたことを知られたくなかったのだろう、竪琴を隠そうとした跡がある。父は顔を赤らめている。どうやら、恥ずかしかったらしい。
(……どうせ、部屋の外に聞こえているんだから、隠すこともないのに)
叶子(ユエズ)、なんだ?」
「先だっての戦は、お疲れ様でした。軍師としても、この勝利は嬉しいものです」
 そう言えば、顔を引きしめ仕事に入るのだから、この父はすごいと思う。
「お前こそ、ご苦労だったな。若干十七歳の若造が、なんて声も出ているぐらいだ。今回の戦術は見事であった。褒美を出そう」
「恐れ入ります」
 父は窓の外を眺めた。そこからは山茶花が見えるはずだ。あの咲き誇った紅い花が。
「もうすぐ、青鳥の命日だな……」
「そうですね」
 淡々と返すと、悲しそうな表情を一瞬浮かべた。
「――お前、母親ほしくないか?」
「はいっ?」
 突拍子もない問いに、おもわず怪訝そうな表情を浮かべる。
「……別に必要ありませんが……」
 突然言い出した父の真意が分からずに眉をひそめつづける。しばらくして叶子(ユエズ)は顔を上げた。
「分かりました。さては父上(チャーフー)さみしいのですね? いいんですよ、子供に気兼ねせず。どの方なんですか? 虎人(フーレン)の族長が惚れたという女人は」
 よどみなく述べた言葉に、慌てて否定が返ってきた。
「ち、ちがうわ。お前は何でそう早とちりが多いのだ」
その後でごにょごにょと言い足す。
「――お前がさみしいかと思ってな」
「どこでそんな結論に達する要素があったんですか……」
 聞き返すと、お茶をにごされた。でも聞かなくても分かってる。
(おれに母親の記憶がないから、だ)
「もう終わりにしよう。お前もわしも族長の嫁はいらんということで」
 父は話をさっさとまとめて真面目な顔をする。
「こんな話をしようと思って、ここに来た訳じゃないだろう? 何の用だったんだ」
「ああ、そうですそうです。先ほど知らせがあったのですが」
 そう言いつつ、卓子(つくえ)にその知らせの紙を乗せる。
夜晶人(カーバンクル)族のサーチェス・カッグウィールが亡くなったそうです」
 紙をちらりと見て、父はため息をついた。
「そうか、サーチェスが……」
 サーチェスは父の最も親しい友だった。どういうことがあって知り合ったのかは分からないが、数年前彼らが入国した時から続いている友情関係だった。
「もう一つあります。このことを受けて、そのサーチェスの娘が退国したいと言っていますが」
「……許してやろう。その娘も辛いはずだ」
 もう一度父は微笑んだ。叶子(ユエズ)はその様子を見ながら、窓辺に寄った。この時、扉が叩かれた。役人が顔を出す。
「客人が参っています」
「サーチェスの娘です、父上(チャーフー)
 そう言いながら、中へと招いた。入ってきたのは、黒いマントを羽織った者だった。その姿からは性別さえ判断できない。
「御前失礼致します。今は亡き母に多くの手を差し伸べていただいて、とても感謝しております。この度母が亡くなったのを機に、諸国を訪ね歩いてみようと思っております」
 そこで彼女は口を閉じた。一度床を見てから、また前を向く。
「ですので、ここはトーコ国(ラウ・レギト)を退国したいと思い、願い出ました」
 父は椅子から立ち上がって彼女の肩を叩いた。
「よかろう。私もサーチェスにはたくさんのことで感謝している。行っておいで」
 優しい言葉をかける。途端、彼女の顔にほっとした表情が浮ぶ。
 ちょうどその時だった。
 窓から強い風が吹いてきた。むせかえる花の香りが辺りに満ちた。
「っ、何だこれは!」
 顔をかばうように腕を上げた。風はすでに肌を切り裂くように痛みを残していくほどになった。
「くそっ」
 叶子(ユエズ)は言葉を吐き捨てた。黄色い風を起こして姿を変える。虎の姿へと。
叶子(ユエズ)、お前は引っ込んでおれ!」
 そう聞こえた刹那、横を黄色い姿が通り過ぎた。風のふく方向へと向うその姿は。
「……父上(チャーフー)!!」
 呼びかけると、その虎は足を止めこちらを見た。その瞳は強い意志を持って叶子(ユエズ)を刺す。
「言っておく。生きることを諦めたら、おしまいだからな」
 そう投げかけて、また風の方向へと向かっていく。
父上(チャーフー)!」
 その途端、一際強い突風が吹いて、飛ばされてしまう。立ち上がり、先ほど投げかけられた言葉を反芻する。
(――なんだか、別れの言葉みたいじゃないかっ)
 その時だった。ぴしゃっ、と軽い音が頬で鳴る。じわりと濡れた感触があった。その感触に覚えがあった。戦場でよく、聞かれた――。
「っ」
 恐る恐る手を頬へと伸ばす。こすりつけたそれを横目で見た。思った通りだった。あかいあかいそれは。
 その時、黄色いものが前から飛んできて、思わず全身で受け止めた。何かはすぐわかった。
「……父上(チャーフー)
 ゆっくり体をゆする。
 しかし、動かない。
 あたたかだった身体が段々冷たくなっていく。
 その姿を嵐風の中、見つめているしかできなかった。どうすることもなく身体に前足をかけたまま、止まっていた。
 冷え切ってしまったその身体の毛を握りしめた。くしゃり、音を立てる。
 分かっている。
 さっき投げかけられた言葉は、やはり別れの言葉だったのだ。
 顔をしかめる。涙が出そうだった。
 でも我慢ができなかった。しようがなかった。
「っ、父上(チャーフー)――――――――!!」
 彼の咆哮は、この嵐の中、父の命と同じように消え去っていった。

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