しばらくは、黙って山羊(やぎ)の背に森精人(エルフ)の後ろで乗っていたが、ワーチは耐えられず口を開いた。
「ねぇ、あなたの名前は何ていうの?」
 森精人はすぐに答えず、かわりに山羊に何かを指示する。するとカッと大きな音を立てて、山羊が飛躍した。港の端に止まった舟へとめがけて飛んでいる。下をのぞけば、打ち付けられて白くしぶきを上げる海が見える。
 山羊の足が舟の縁にかかった。そのまま蹴ると、舟は揺らいだ。その間空中にいた山羊は舟のちょうど真上に来ている。そのまま落ちていった。
『ワーチ!』
 慌てたようにフーマが額の石から飛び出して、ワーチを包む。そのおかげで衝撃はあまりなかった。
 舟はオールでこぐ様式のもので、その一人分のオールは森精人がすでに握っていた。振り返れば、だんだん港が遠くなる。先ほどまで乗っていた山羊といえばその横でくつろぐように座っていた。
「ワーチ、座って」
 その言葉に舟の安定が悪いのだと感じる。おとなしく座って相手をねめつける。
 潮を含む風が舟近くの波を揺らしていく。その揺れを感じた。
「さっきの質問に答えるよ。ぼくはブレイヴ」
「ブレイヴ……なに?」
 名字を聞こうと続きをうながすと、ただのブレイヴでいいと返された。聞かれたくないようだ。仕方がないので、別の質問に切り替える。
「どこへ向かってるの?」
シン国(トセロフ)
「……あなたの母国?」
 森精人はシン国という領土の大半を森で覆うその地に住むというのは聞いていた。けれどどこにあるのかはよく知らない。
「そう、ぼくの母国。そして――」
 ちらり、と上空を見た。ワーチも視線を向けると、フーマが恐い顔をしてブレイヴをねめつけていた。ブレイヴがため息をついて、話す。言うことを変えたのだろう。
「君の秘密が眠る場所」
 それでもフーマの逆鱗に触れてしまうらしい。額に風で傷をつけられていた。それが間抜けに見え、こっそりと笑ってしまう。
「……ともかく西の大陸のまた西側に、大陸とは呼べない、でも島ともいえない大きな島があるんだ。そこにはいくつかの国があって、シン国はそのちょうど中心当たりに存在する」
 その言葉に、知りうるかぎりの地図を頭の中に浮かべた。そして、ぞっとする。
「ちょっともしかして、そこまでこの舟で行くなんてことはないよね?」
 ただのオールのみで進む舟をちらりと見ながら確認するように言う。大丈夫、と彼は言った。
「途中西の大陸の南にある島に寄る。そこからはその大きな島に対して、定期船が出てるからそれに便乗させてもらうんだよ」


 その南の島は、多種多様の種族が住んでいるように思えた。
「――ここのふんいき、すごくサイヒ国(トソム・ディオバ)に似てる……」
「ちがうよ」
 否定がすぐさま返ってくる。どうして、と聞くような目線を向けると説明してくれた。
「ここの島に住む人に種族はない。いちおうとある国の領土だけどね。もちろん、そこの種族だけが住んでいるわけではない。ここは混沌の場所。混血がさかんに行われている場所なんだ」
 そう言われて目を向ければ、石を持っているのに獣の耳がある、そんな人も見かけた。
 サイヒ国は多くの種族が共存している。けれどもその種族間で混血が行われた、という話は聞いたことがない。
 そのうち、長なのだろう白い髭をゆったりたくわえた老人が進み出てきた。
「我が島にようこそいらっしゃいました。何か御用がおありでしたか?」
「シン国へ向かう定期船があったと思ったんだが、便乗させてもらえるか?」
 ブレイヴの頼みに、難色を示している。
(……渡れないの?)
 この舟でその島まで行かなくてはいけないのか、と考えてここまで乗ってきた舟を振り返って、ため息をついた。それは破船寸前までぼろぼろになっていたのだ。


 結局その長の懸念していたことは、ワーチ達を乗せるかではなく、その定期船の中に客船がないということらしかった。ヴレイヴは貨物船の端でいいか、と聞いてきたが、選択の余地がないのは分かっていた。
 その日はもう定期船が出てしまった後だったので、我が家に泊まって下さいという長の願い出に、甘えさせてもらうことになった。


 昨日はお世話になりました、と頭を下げると、いやいやたいしたもてなしもできず、と向こうが返してきた。
「ワーチどの、また機会があればお寄りください。この島では客人をいつでも歓迎しておりますぞ」
 笑う長の横から、少女が顔を見せる。昨日も食事の用意や部屋への案内などしてくれた子だ。ワーチと同じように額あてをしていて、その綺麗な模様が銀色の髪からのぞいていた。お礼を言うと、彼女は手にしていたものを渡してきた。
「すこしですけど、パンを焼きました。船の中で食べて下さい」
 もう一度ありがとう、と言う。先に乗り込もうとしていたブレイヴが呼ぶ声が聞こえて、慌てて船へと乗り込んだ。
「何もらったんだ?」
 パンだというと良い匂いがする、と笑った。
 さっそく包みを開き、パンを取りだす。いつも食べているようなうすいパンではなく、ふっくらと膨らんだ柔かいパンだった。ちぎって半分彼に渡す。
 フーマはブレイヴと不仲だったのか、あれから全然石の外へ出てこようとはしなかった。気にはなるけれど、しかたがないので、放っておいている。
「シン国までどれぐらいかかるの?」
「半日だそうだよ。この船は早い。先を急ぐぼくらにはぴったりだ」
 あの舟に比べたら、どの船でも早く進むよ、と思いながらそれは黙っておく。
 半日。それで、過の行動の目的が分かる。そして。
(わたしの秘密)
 それが何なのか、少しも見当がつかない。それでも知りたいと望むのだ。
「早く、行きたい」
 ぽつりともらした言葉に、ブレイヴもゆっくりうなずいた。


 シン国に立って、最初に思ったのはやはり森がすごい、だった。
 右を見ても左を見ても、木ばかりが目に入る。トーコ国にも森はあったけれど、この比ではない。
「さあ、どこへいくの」
 横に立つブレイヴに話しかけると、背伸びをしてからこっちと右側を指差した。あまり広くないその道を山羊に乗って抜けていく。いつのまにか、フーマも出てその新鮮な空気の中を駆け抜けている。
「あれ……」
 森の中はあまり違いはない。けれど何かが引っかかった。
(見たこと、あるかもしれない)
 そんなわけはない、とかぶりをふる。けれど既視感は消えない。
 ブレイヴに言おうか、と思ったが、やめておいた。
 けれど次の風景でその思いは吹っ飛んでいった。
 開けた場所にあったのは、丸太で建てられた小さな家だった。トーコ国で住んでいた家と似たふんいきを持っている。でも違った。けど。
「……わたし、知ってる」
 言葉を舌の上で転がした。そうして、もう一度確かめる。間違いない。
「わたし知ってるわ、この家」
 ブレイヴは驚いた風もなくうなずいた。フーマは止めるように、私の前に立ちはだかる。
 けれどその透き通る身体のむこうに、家は見えている。
「覚えている。わたしはここにいたことがある」
 それからブレイヴを見すえる。彼は当たり前だ、とでもいうように言い放つ。
「そうだよ。ここは君の家なんだから」
 君の家。なぜかその言葉に、納得を覚えた。

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